表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.1.10 ■■■ 類まれなる竹器と瓢箪「酉陽雑俎」の一番の難しさは、どうでもよさそうな1行話の解釈にあると言ってよいのでは。全く知らない語彙なら、初めからあきらめもつくし、勝手に色々と想像を巡らすこともできるので、たいした問題はない。 どうせ、常識の枠に囚われてはいかんぜ、という成式的ご教訓にすぎない。その実、それは冗談半分だったりする訳で、そこが面白さ。 ところが、誰でも知っているものを対象にした1行話は骨である。 一体、なにが、"珍"、"異"、"怪"、あるいは"超絶"なのかが、さっぱり想像がつかないからである。 そんな例をとりあげておこう。 先ずは、江西の竹の話。 今でも、崇義や宜豐といった"竹郷"があり、竹の加工品製造が盛んな地域であったのは間違いない。 間違えてもらってはこまるが、「卷五 怪術」収載である。・・・ 江西人有善展竹,數節可成器。 竹細工は簡単ではないが、ヒゴを編むだけなので、たいした耐久性がなくてもかまわないということであれば、で練習さえすれば作れる。ヒゴは、竹を割って肉的部分をを剥ぎ落としてから、細かく縦割りして同一の太さにするための道具の穴に通せばできあがりである。 常識的には、弾力性維持のため、ヒゴを伸ばしたり展開することはしない筈。 実際、竹器をみると、什器や家具も含む広い概念のようだが[竹筷子、筷桶、籃子、筐、篩、籮、簸箕、簦、笠、簟、籧篨、椅子、躺椅、竹桌椅、凉床、凉席、etc.---.]、"展"的に映る作品は見当たらない。 そうなると、これは竹皮を伸ばす作業を指しているのと違うか。 竹皮は普通は単なる包みだけのものだが、よく伸ばしてから、それを折っていけば様々な造形作品ができる。 乾燥させた竹なら、表面を薄く剥がせば同様なことは可能だろうが、それに価値があるとも思えぬが。 "怪"と呼ぶほどのことではないが、他に思いつかぬのであしからず。 次は、葫蘆。・・・ 有人熊葫蘆,雲翻葫蘆易於翻鞠。 葫蘆/瓢箪[ヒョウタン]/Gourdは、未成熟な果実は蔬菜になる植物名称だが、常識的には加工した独特の形状の容器のこと。軽くて強度がある壺になるので、古代から利用されている。アフリカ原産説に説得性が高く、そうなると世界最古の栽培植物の可能性も。つまり、とてつもない長い歴史がある訳だ。 成式の書いた"翻"をそのまま解釈すると、ヒョウタンの表裏をひっくり返すと読むことができそうだが、そんなことをした例はついぞ聞いたことがない。およそ常識外れと言わざるを得まい。 有り得ぬと言うのは簡単だが、そうなると説明に窮する。「ヒョウタン加工が上手な人がいますゾ」だけの情報を記載する訳がないからだ。 しかも、"熊葫蘆"という"ヒョウタンから熊"的な名称もどこかふざけた印象。 特大ヒョウタンを下半分だけ切り取り、中身を刳り貫いて裏返してから、黒色に染めて干したものだろうか。 同型のものを2個作り、つなぎ合わせて球体にしたのでは。 鞠も、袋縫いした裂地を裏返しし、そこに詰め物を入れて閉じて球体にするが、それと同じようなものということ。 わざわざ裏返しする理由を尋ねられても、往生するだけだが。それこそが、"怪"ということでご勘弁願おう。 思うに、職人が、この技術は凄いゾとばかりに注力して仕上げた製品を見せられて、絶句したのではなかろうか。コレに何の意味があるのかと。アヴァンギャルドでもない訳で。 成熟した社会には得てしてそんな風潮が生まれるものである。 成式にとっても、それは他人事ではないのである。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |