表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.2.15 ■■■ 鳴石山山東の中央部にある魯山は群山屹立の森林山岳地帯。輜川、汶川、彌川、沂川の源でもあり、現在でも、鳴石山は奇石で知られており、"歩入魯山景色幽,六月炎夏頓成秋"の鲁山国家森林公園内景點とされている。もちろんのこと、大陸にはそのような地は数々ある訳だが。・・・ 高唐縣[@山東聊城]鳴石山, 巖高百餘仞,人以物扣巖,聲甚清越。 晉太康[武帝/司馬炎の天下統一期:280-289年]中, 逸士田宣隱於巖下, 葉風霜月,常拊石自娛。 毎見一人,著白單衣,徘徊巖上,及曉方去。 宣於後令人撃石, 乃於巖上潛伺,俄然果來,因遽執袂詰之。 自言姓王,字中倫,衛人。 周宣王[在位:B.D.827-B.D.782年]時,入少室山[=嵩山]學道, 此頻適方壺,去來經此,愛此石響,故輒留聽。 宣乃求其養生,唯留一石如雀卵。 初則淩空百餘歩猶見,漸漸煙霧障之。 宣得石,含輒百日不饑。 [卷二 玉格] 衛は春秋十二諸侯国の1つで中原の中心部に位置する小国であった。[魯 (姜)斉 晋 秦 楚 宋 衛 鄭 陳 蔡 曹 燕 呉] 周朝第11代宣王即位の時は、釐侯在位期[B.D.855-B.D.813年]。 その宣王は賢人を起用し、周室中興を導いたとされている。 ただ、「詩経」には、"宣王北伐也。"[小雅 南有嘉魚之什 六月@毛詩序]とか、"尹吉甫美宣王也。能興衰撥亂,命召公平淮夷。"[大雅 蕩之什 江漢@毛詩序]とある。征伐外族的侵攻には余念がなかったことは間違いなく、国力は落ちる一方だったと思われる。 "江漢"には、"匪疚匪棘,王國來極。于疆于理,至于南海。"とあり、密偵が侵攻先を探索していたのは間違いあるまい。 晋朝は曹魏世族国家。洛陽を首都として南方の領土拡大に奔走し、強大な帝国樹立に漕ぎ付けた訳である。久方ぶりの、北方から南方への民族大移動が生まれたと見ることもできよう。 これは宣王の征伐時代とたいしてかわらぬ訳である。道教は宗教的に後押ししている訳である。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |