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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.4.30 ■■■

酉陽雑俎的に山海経を読む

--- 郭璞 序 ---

「山海経」は明代に人気が沸騰した模様だが、それは奇妙奇天烈な姿の獣の絵が並んでいたからであろう。
マ、それは現代にも引き継がれているようで、大陸では出版物が多いようだ。

日本の場合はそれをネタにした怪奇譚は江戸期から根強い人気に支えられてきたが、キメラ嫌いだから、大陸の嗜好とは違っていそう。

「酉陽雑俎」翻訳を難題と言いながら引き受けた魯迅研究者の今村の気分はそれとはほど遠かったと思われる。何故に、人々に怪奇に映るのか考えあぐねていたに違いない。おそらく、魯迅も同じ。
しかし、両者の社会環境はかなり違っているので注意が必要だろう。・・・
魯迅幼少のみぎり、世間のことを色々と教えてくれていた乳母的ネエヤ、"お長さん"は、欲しく欲しくててしょうがないのを見かねて、「哥兒,有畫兒的『山海經』,我給買來了!」[魯迅:「阿長与山海経」@1926年]
これで、魯迅大感激。"お長さん"を尊敬するようになったようである。
善良にして朴訥なネエヤだが、迷信の塊というのに。ところが、それでいて、聡明でもあるのだ。そこが素敵なところ。成人して回りを見渡せば、それとは真逆の、頭デッカチで間が抜けたズルばかりということかも。

ところで「山海経」だが、注をつけて編纂した郭璞[276-324年]が書いた序があり、以下の文章で始まる。
これには段成式も100%納得したに違いない。・・・
世之覽山海經者,
皆以其誕迂誇,多奇怪俶儻之言,
莫不疑焉。
世の中で「山海経」を閲覧する人は、
 皆、
 その虚妄にして誇大なことと、適当な文言が多いため、
 奇怪多しとして内容に疑問を感ぜずにはいられまい。
  :
 [略]
  :
世之所謂異,未知其所以異;
世之所謂不異,未知其所以不異。何者?
物不自異,待我而後異,異果在我,非物異也。
しかし、
 世で言うところの異常であるとは、
 異常を未だに知りえていないからにすぎない。
一方、
 世で言うところの異常ではないとは、
 本当に異常ではないと知っているからではない。
それは、どういうことか?
物自体は異常ではないのであり、
 我々がそれを見立てた後に異常とされるのだ。
異常な点があるとすれば、
 それは我々に内在しているのである。
決して、物自体が異常な訳ではない。
  :
 [略]
  :
不怪所可怪,則幾於無怪矣;
怪所不可怪,則未始有可怪也。
つまり、
 怪しむべき所を怪しまなければ、
 怪しいものなど無いところだらけとしている訳で、
逆に、
 怪しむべきでない所を怪しむとするなら、
 始めからこれは怪しむべしと決めてかかっている訳だ。
  :
 [略]
  :
蓋此書跨世七代,歴載三千,雖暫顯於漢而尋亦寢廢。
其山川名號,所在多有舛謬,與今不同,師訓莫傳,遂將湮泯。
道之所存,俗之喪,悲夫!
つらつら思うに、
 この書は七王朝
(夏〜晋)を経て来た。
その歴史は3,000年。
漢代には顕れたにもかかわらず、
 そのうち寝かされてしまい、ついには廃れてしまった。
そんなこともあって、
山川の名前や号、その所在地について、
 かなりの誤謬が見受けられ、
 現時点の情報と一致しないことがある。
師として仰ぐべき人々のご教訓の言葉も、
 あってしかるべきなのに、
 全く伝わっていない。
これでは、
 ついには、煙のように霧散消滅してしまうことになろう。
本書には"道"が存在しているというのに、
 それを俗世間の人々は喪失してしまうことになる。
なんとも悲しいことではないか!
  :
 [略]
  :
非天下之至通,難與言山海之義矣。
嗚呼!
達觀博物之客,其鑒之哉。
確かに、
 天下の秀でた人々でない限り、
 「山海経」の本質を語ることは難しい。
大声で叫ばざるを得ないではないか!
広い視野で物事を見ることができる
 博学知識人の皆さん〜、
どうか、ここで、かんがみてはいただけぬか。


この言葉、「酉陽雑俎」にも通じる。
ただ、段成式は内容だけでなく、文章の体裁に気をつかい、遊び心も入れて仕上げたようである。
そのお蔭で、かえって難しいものになってしまった。そのため、相当の洞察力が無いとさっぱりわからぬものになってしまった。お蔭で、今や、洞察力鍛錬の最良のテキストとなっているのである。

ただ、ここで注意を要するのは、山海経の本来の姿は絵図であった筈という点。
つまり、イメージを伝える書なのである。イメージは時代感覚と不可分なので、社会文化が異なれば理解はことの他難しい。
それを文字化してしまうと、全く違うものになる。そこには、必ず形成された概念がつきまとうからである。文章を読む側が頭に納めている概念という眼鏡を通して、異質なイメージを覗いているのだから、そう簡単に本質を読み取れる訳がない。
そして、この書の意図するところが、地誌であるため、これに数量表現が加わる。数そのものは、概念でしかないが、純粋な抽象であるが故に、それはほぼ理の世界の話になる。それは、イメージを描く書としては、実は、極めて不適切と言わざるを得ない。儒教的中華帝国思想の書になりかねないからである。
これでは何を言っているのかわからぬか。儒教の出発点でもある、「河圖」+「洛書」を考えて欲しい。内容的には、これは、儒教占術の天地生成之數の書であり、占星術の九宮星相圖と 風水術数の陰陽五行をも抱合するものである。以下のような、"理"を示しているのである。儒教は、山水経を同じようなものにしたかったに違いないが、それはできなかったのである。イメージの書だからである。
[河圖]:伏羲が見た、黄河から現れた龍馬の背に生えている旋毛の形象文様(八卦:1/6水-2/7火-3/8木-4/9金-5/10土;16@北-27@南-38@東-49@西-510@中・・・天、地、日、月、雷、風、山、澤)
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[洛書]:禹が洪水を治めた時に洛水から現れた亀の甲の文様
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