表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.6 ■■■ 酉陽雑俎的に山海経を読む「中山經」の最後尾は"中次十二經"だが、末尾は"五臧"である。 禹が自著であるとの後書きとも読める文章だが、山経のなかには、禹に関する記載がところどころに散りばめてあり、そのような書の体裁には似つかわしくない印象を与える。 このことは、山経をベースとして、禹が5,370山-64,056里を踏破し、それを改訂整理したということになるのでは。"網羅的"記載と称し、取捨選択して小山を削ったと書かれており、いかにも官僚的思考法でまとめたと言わんばかりだし。 もともとの山経は完全な絵図であって、中華帝国官僚制度が整ってきたため、それぞれの山の名称を"文字"化し、絵の解説文章を付随したということ。これは画期的なことであろう。 おそらく、山経の対象としている各山系内ではどうやら言葉が通じる程度で方言的差違はかなりあったと考えられる。しかし、山系同志では、通訳無しにはコミュニケーションは難しかったと見るのが妥当だろう。 つまり、違った言語だらけだった訳である。 ところが、そんな状態にもかかわらず、広域交易が行われただけでなく、始終、戦争がおこなわれ、言葉が通じない民をも傘下に組み込み兵員・奴隷にするとともに、一部を統治要員に起用することで国家を作り上げていったに違いないのである。 語学堪能な者は僅かであり、人々に物事を伝えるには絵とゼスチャーが一番実践的だった時代が長かったが、その状況を禹が突破したことを示していよう。 要するに、それぞれの山名と関連する河川名や地名を、"現地読み"を意味から絵図にしていた書に、"規格化"文字をつけたのであろう。 説明不十分で簡素な文章に徹しているのは、絵が無くても、知識層なら読めるとふんだから。文章から、地図を頭で勝手に再構成できる筈で、それができないようでは社会の指導層としては能力不足と見なしていたということ。 つまり、禹は、「山経注」の編纂を命じたと見る訳である。初の書物だった可能性もあろう。 ただ、もともとの絵図だけの「山経」はかなり古いもので、これほどの詳細のものでなかったと言えるかも知れない。かなりの増補版であるのは確かだ。後世の挿入もありそうだから、よくはわからないものの。 注目されるのは、最初の地誌と、禹の意図する地誌には微妙な差があること。記載内容は、各地区の玉・鉱石・植物・動物だが、玉と動物が関心事項ではなくなっているからだ。両者ともに、すでにその地に少なくなっていたり、枯渇/絶滅しまっていることを示しているのではないか。 そして、もう一つ大きな違いがある。 基底にある山神について全く語られていないこと。この書が戦争遂行の観点で貴重な情報源ですゾと宣言しており、思想的に換骨奪胎されたものに仕上げたを語っているからだ。 さらに付け加えるなら、禹の"選良"たる七十二家は「山経」においては自明ではない。山の"産"ではなく、各地の"国"の記述をしたり、民の名称や"姓名"を付けているのは、後代の書と思われる「海経」だからだ。 「山経注」の威力がわかり、この後、ほどなくして、文章だけの「水経」が生まれたと考えるのが自然であろう。 原文をそのまま引いておこう。・・・ 禹曰: 天下名山,經五千三百七十山, 六萬四千五十六里,居地也。 言其《五臧》, 蓋其餘小山甚衆,不足記云。 天地之 東西二萬八千里,南北二萬六千里, 出水之山者八千里,受水者八千里, 出銅之山四百六十七, 出鐵之山三千六百九十。 此 天地之所分壤 樹穀也, 戈矛之所發也, 刀鎩之所起也, 能者有餘, 拙者不足。 封于太山,禪于梁父,七十二家, 得失之數,皆在此内,是謂國用。 右《五臧山經》五篇,大凡一萬五千五百三字。 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |