表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.14 ■■■ 仏像焼却禅宗のイメージは"座禅"だが、他の仏教宗派でもそれは修行の1つであり、本来的には特徴と呼ぶべきではないと思う。マ、少数意見の類だろうが、そう考えて「酉陽雑俎」を読むと、そこに禅宗の始原的問いかけが含まれていることに気付くのではないか。 "「仏」を焼いたのは誰の罪か?"ということで。 [小川隆:『「禅の語録」導読 禅の語録 20』 筑摩書房 2016年] 以下が、その箇所である。・・・ 蘇州貞元中有義師,状如風狂。 有百姓起店十余間,義師忽運斤壞其檐,禁之不止。 其人素知其神,禮曰: “弟子活計ョ此。” 顧曰: “爾惜乎?” 乃擲斤於地而去。 其夜市火,唯義師所壞檐屋數間存焉。 常止於廢寺殿中,無冬夏常積火,壞幡木象悉火之。 好活燒鯉魚,不待熟而食。 垢面不洗,洗之輒雨,呉中以為雨候。 將死,飲灰汁數斛,乃念佛而坐,不復飲食, 百姓日觀之,坐七日而死。 時盛暑,色不變,支不摧。 貞元[唐 785-805年]の頃、蘇州に義師という風狂に見える者がいた。 ある百姓が、市場で開店した。10間ちょっとの広さ。 すると、すぐに義師が鉞を持ってやってきて、店の軒の庇を壊し始めた。しかし、その行為を止めることは出来ない。 そこで、その素性を知らぬ人が、礼儀正しく伝えることにした。 「弟子は、ここで生計を立てているのですが。」と。 義師は振り返って言い放った。 「なんだ、そんなものが惜しいのか!」と。 そして、鉞を投げ捨てて、その地を去って行った。 その夜のこと。 市場で火が出た。 しかし、義師が庇を壊した屋敷の数間だけは焼けずに残ったのである。 この義師だが、廢寺の殿中に泊まっており、冬だろうが夏だろうが、常に火を燃やし続けていた。そのため、幡や木像をことごとく壊して燃し尽くしていた。 その上、活魚の鯉の焼いたものを好物としていた。しかも、火が通っていない半生状態で食すとくる。 それだけではない。 顔を洗わないから垢だらけなのだ。と言っても、洗うことがあり、そうなれば雨が降ってきたりした。お陰で、呉中では、雨の兆候をコレで予測していたとか。 死期を迎えるにあたって、義師は灰汁を数斛飲んだという。そして、飲まず食わずで、座して念仏を唱えたそうである。 百姓によれば、観続けたが、死ぬまで七日間も座り続けたと。 それは暑い盛りの頃だったが、色は変わらず、身体もしっかりしたままだったとのこと。 安國寺僧熟地,常燒木佛,往往與人語,頗知宗要,寺僧亦不之測。 [卷三 貝編] 安国寺の僧、熟地は常に木仏を焼いた。 ただ、往々にして、人々は語っていた。 熟地は宗要を頗るご存知なのに、と。 寺僧はその思惑を測りかねていた。 "「仏」を焼いたのは誰の罪か?"は、木仏を燃やした和尚と、燃やしてはならぬと考える弟子の僧の対立が題材。 言うまでもないが、単に木材を燃やしたにすぎないというのが和尚の考え方。 一方、弟子にとってみれば、仏を燃やすなどあってはならぬこと。だが、燃されても仏は残るという立場をとるとすれば、それなら燃してもよかろうとなりかねず矛盾をかかえることになる。 一種の禅問答である。 成式が引いてきた文章には、こうしたセンスを感じさせるところがある。禅問答を、自分の頭のなかで行えというようなもの。 そのような記述にしている点も、いかにも前駆的禅宗思想といえるかも。 宋代の禅の書といえば基本は問答。つまり、原則的には話言葉が収載される訳で、唐代では、そのような書き方では本にはできないのである。 話言葉翻訳は難しいというのが理由とも思えないが、禅がポピューラーな割には、漢籍の邦訳書は際めて少ないそうだ。そんな状況を突破したかったこともあって、「禅の語録」シリーズが刊行されたのが1968年。そして、2016年にようやく完結を見たのである。・・・ "禅宗文献を中国古典文献の一種として語学的・文献学的に読み解こうという試みが開始されたのは、実はわずか半世紀余り前のことでしかない。…" "禅の思想史――厳密にいえば「禅」そのものの思想史と言うより、禅宗文献に書きのこされた思想の歴史、いわば「語録」の思想史と言うべきもの――が考察されるようになってきた"。 [小川隆@2016年4月] (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |