表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.25 ■■■ 儒葬の地「卷四 境異」にしては、河南の話としか思えないものが収載されている。・・・昆吾國, 累塹為丘,象浮屠,有三層, 屍乾居上,屍濕居下, 以近葬為至孝。 集大氈居,中懸衣服彩繪,哭祀之。 昆吾国の葬儀の風習。 塹壕を重ね、仏塔的な卒塔婆の形象として、3層の丘を造成する。 乾燥している遺骸はその上に、 湿潤な遺骸は下に置く。 近くに葬ることが、"孝"に一番繋がる行為と考えられている。 大きな絨毯を集めて設置したら、 その中に彩色した絵柄衣服を懸ける。 大いに哭き、これを祀る。 昆吾という名称は、夏代に陶業分野で力を発揮したということで登場する。[「史記」楚世家][「呂氏春秋」君守篇] その後も繁栄したようだが、湯に討たれた。 殷滅亡後は四散し消息不明。 しかし、地名皆無まではいかなかったようである。・・・ 唐《括地誌》云:「濮陽縣【古昆吾國】也,故城在濮州西八十六里,濮陽西三十里,昆吾台在縣西百歩,相傳夏昆吾氏所築。」 さて、成式が引っぱって来た話だが、"孝"が登場し、いかにも儒教臭芬々。 辺境の地で、そんな概念が通用していたとは思えないが。 墓は、小山の一角を造成して作られる訳だが、場所的に"近く"とは、祖先の傍らという意味。 換言すれば、山全体が血族たる"宗族"の集団墓地なのである。 まさに、「儒者破家而葬」[「韓非子」]文化そのもの。火葬かつ薄葬を好む仏教徒とは180度違う。 「葬」の礼では、墳墓、祖廟、殯宮の3箇所で儀礼があり、声を上げて大泣きするのが特徴である。実質的には、儒教信仰が支配的な朝鮮半島では、今もって当たり前の風習である。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |