表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.5.29 ■■■ 江西九江の夷蛮「卷四 境異」の夷蛮話を続けよう。但し、辺境の地とは言い難い場所でのこと。・・・ 峽中俗,夷風不改。 武寧蠻好著芒心接離,名曰苧綏。嘗以稻記年月。 葬時以笄向天,謂之刺北斗。 相傳盤瓠初死,置於樹,以笄刺其下,其後為象臨。 峽中とは、三峽一帯を指す。 ここらは、中原には比較的近いというのに、夷蛮的風習がそのまま残っているというのである。 特に、武寧@江西。 と言っても、たいした話ではない。中心部が尖がった"苧綏"と呼ぶ帽子を被る程度。ベレー帽とか、ネクタイと同じようなものである。 だが、成式には、農産物信仰の象徴に映ったようである。 なにせ、稲が時間概念の土台になっている地なのである。別に、それは迷信と呼ぶほどのものではなく、古代概念がそのまま生き続けていることに驚いているのだ。 年月記載に稲を用いるというのだ。そう書かれると、ナンダカネの印象を与えかねないが、単に、稲の成長段階が細かく規定されているにすぎまい。農民にとっては時間感覚がはっきりわかるから、実践的なものと言えよう。土着民にとっては、天文学的決め方より実感し易かろう。ただ、遊牧民には全く通用しないから、帝国としては唾棄すべき概念であるだけの話。 成式が気になったのは、多分、そういうことではない。葬儀の時間的禁忌が稲で決まっていて、その理由が定かでないことが気になったのだと思う。これこそ、いかにも、夷蛮的風習だからだ。 遺体に、天に向けた笄[簪/髪掻き]を着けることも、いかにも稲信仰の民らしさを醸し出す。成式が引いてきた、北斗を刺すというのは、稲把が真っ直ぐ天を向いている様を言っているのだと思われる。(穂が墜ちないことが水耕農業の特徴。) ここらの民は、古代、峽中で水耕的稲作を始めた自負を持つ部族の末裔である可能性ありということか。 面白いのは高辛氏 v.s.犬戎の戦いで登場する神犬、"盤瓠"伝説(創造主の巨人"盤古ではない.)が残っている点。その末裔は、巴蜀、武陵、長沙、廬江、等に散ったらしいが。 ところが、その内容が不可思議。 死んだ盤瓠を樹上に放り上げて笄で刺したというのだ。陝西〜甘粛からの侵攻ではなく、四川盆地の犬戎勢力の侵略に対抗した歴史を抱えているのかも。 しかし、流石、神犬だけのことはあり、象と化したという。 この名前が、県としての正式に通用するようになったのは、漢 献帝代の199年。 殷の時代は、艾侯領地だったようで、越や楚の領域といえよう。秦が統一した頃は、現在の名称の九江と呼ばれていたそうで、そこは淮南国[九江+衡山+廬江+豫章]の一部。 「淮南子」を編纂させた淮南王劉安[漢 高祖/劉邦の七男の子:B.C.179-B.C.122年]を想起させる地といえよう。 そこには、夷蛮話が沢山埋もれている地だったのである。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |