表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.6.4 ■■■ 烽火戲兩兄成式が、わざわざ「卷七 酒食」に収録したお話がある。珍しい白いスッポン[鱉]を獲って"あつもの[臛]"料理を作り、盟友として隣の城に居る兄貴達を呼んで、振舞っただけのこと。ただ、喰うか食われるかの戦乱の時代である。・・・ 武溪夷田強,遣長子魯居上城,次子玉居中城,小子倉居下城。 三壘相次,以拒王莽。 光武二十四年,遣武威將軍劉尚征之。 尚未至,倉獲白鱉為臛,舉烽請兩兄。 兄至,無事。 及尚軍來,倉舉火,魯等以為不實,倉遂戰而死。 湖南瀘溪の東北、沅江と武水が合流する場所は武溪と呼ばれている。 (ここらには、盤瓠神話が残り、巫儺風土の地と言われている。) その地で覇権を握るのは田強。 長男 魯を上城、次男 玉を中城、末子 倉を下城につけた。 時は、王莽の"新朝"期[8-23年]。17年には各地で紛争が勃発し大規模反抗化。23年に至ると、民間武装勢力の緑林軍が長安に侵攻するまでに。 この3つの根城も相次いで反旗を翻していた。 そんな情勢であったが、 末子、白鱉を捕獲。湯料理ができたので、狼煙をあげて、二人の兄を呼んだ。 救援に駆け付けた訳だが、 何事もなかったので拍子抜け。 その後、武威將軍劉尚が末子の城に攻めてきたので、緊急事態ということで狼煙をあげた。長男を始め、どうせ本当のことではあるまいと見て無視。 結局、末子は戦死の憂き目。 ここらを歴史的に見れば、こんなところ。・・・ 建武23年[47年]春正月に南郡蛮叛逆。武威將軍劉尚が派遣され尚討。同年12月には武陵蛮が叛逆。沅水で敗没。 [「後漢書」卷一下光武帝紀第一下] イソップ寓話の「オオカミ少年」を彷彿させるストーリーだが、嘘つきは童であり、だまされるのは大人。だからこそ、童話として意味がある訳だ。 しかし、それは西洋。 大人による大人げない嘘の結果、信用を失うという大人向け逸話が好まれるのであろう。 "小子倉の狼煙"に似ているのは、誰でもが知る、亡国の美女話"撃鼓[烽火]戲諸侯"である。・・・ 周宅酆鎬近戎人,與諸侯約,為高葆禱於王路,置鼓其上,遠近相聞。即戎寇至,傳鼓相告,諸侯之兵皆至救天子。 戎寇當至,幽王撃鼓, 諸侯之兵皆至,褒姒大説,喜之。 幽王欲褒姒之笑也,因數撃鼓,諸侯之兵數至而無寇。 至於後戎寇真至,幽王撃鼓,諸侯兵不至。 幽王之身,乃死於麗山之下,為天下笑。 此夫以無寇失真寇者也。 賢者有小惡以致大惡。 褒姒之敗,乃令幽王好小説以致大滅。故形骸相離,三公九卿出走,此褒姒之所用死,而平王所以東徙也,秦襄、晉文之所以勞王勞而賜地也。 [「呂氏春秋」卷二十二 疑似] (「列女傳」卷之七孽嬖傳 周幽褒姒や「史記」卷四 周本紀第四 宜臼では,"幽王為烽燧大鼓".) 周の近くには犬戎の軍勢がいたので、太鼓を叩いたら諸侯が救援に向かうとの盟約ができていた。 ところで、幽王には、笑ったことがない美貌の后、褒姒がおり、なんとかして笑わせようと八方手を尽くしていた。 ある日、太鼓を叩いたところ、約束通り、緊急事態ということで、諸侯の兵が駆け付けた。何もなかった訳だが、その時だけ、褒姒は笑ったので、その後、度々その手を使った。 そのため、緊急連絡の太鼓は信用されなくなった。 やがて、反乱が発生し、攻められた幽王は太鼓を叩いたのたが兵は集まらず、殺されてしまった。 周の滅亡である。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |