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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.6.23 ■■■

墨刑罰史

唐代において、刺青は、刑罰として広く行われていたことがわかる。なにせ、後宮や貴族の家庭内でも、女性が懲罰として多用していた位なのだから。
その辺りが、反体制的言動を好むパンクが刺青を愛好する根拠になっていそうだ。

そういうこともあって、成式も墨刑罰史を一通り見ておきたかったのであろう。

先ずは、中華帝国のハシリの周。
ここから始めていることろが、実はミソ。・・・

【周官】,
   墨刑罰五百,
【鄭】言,
   先刻面,以墨窒之。
   窒墨者,使守門。


墨刑の発祥は、五虐を行っていた苗民とされていたりするが、五徳 v.s. 五虐という対比で、敗残者にその役割を押し付けているようにも映るから、それがどこまで本当かはわからない。
[墨(入黥),(削鼻),(切足),宮(去勢/幽閉),大辟(死刑)の五刑が続いたが、仏教全盛の隋代には、笞,杖,徒(懲役),流,死に変わる。]
ただ、苗民話は堯舜の時代とされているようだから、刺青の歴史は先史時代にさかのぼると認識されているのは間違いなさそう。

それが、周代になると、すでに墨刑の細目規定ができあがっているのだ。苗民同様の扱いを受ける罪ということかも。
この制度は社会的に全く違和感が生まれなかったようで、漢代までそのまま使われ続けたようだ。
司刑:…墨罪五百,… [「周禮」秋官司寇第五]
墨,黥也,先刻其面,以墨窒之。…
 [漢 鄭玄注:「周禮注疏」卷三十六]
墨罪五百。 [「漢書」刑法志]
墨罰之属千。 [「尚書/書経」呂刑]
掌戮:…墨者使守門,… [「周禮」秋官司寇第五]
ここで、"守門"という役割が唐突に出てくるが、貴族は奴隸を擁していたから、黥面にされた者に門を守らせていたということだろう。

これが理解できれば、後は特徴的な話を引用するだけで、墨刑罰史の全体観をつかめると考えたようである。・・・

《尚書刑コ考》曰:
  “涿鹿者,鑿人也。
   黥人者,馬羈人面也。”
 【鄭】雲:
  “涿鹿、黥、世謂之刀墨之民。”
《尚書大傳》:
  “虞舜象刑,犯墨者p巾。”
《白虎通》:
  “墨者,額也。取漢法,火之勝金。”
《漢書》:
  “除肉刑,當黥者鉗為城旦舂。”
【晉令】:
   奴始亡,加銅青若墨,黥兩眼;
   從再亡,黥兩上;
   三亡,黥目下,皆長一寸五分。
【梁朝雜律】:
   凡囚未斷,先刻面作“劫”字。


個々に目を通していこう。

《尚書刑コ考》 & 【鄭】
佚書だが、似た名称が散見され、出典は定かではない。
鄭玄の緯書(経書解釈本)が、どのような文だったか想像がつきやすいので引いておこう。・・・
鹿者竿人類也
觀者馬羈年人面也
隋臘涿麗隴皆先次刀鉛傷人墨布其中故後世謂乏墨士民也

  [鄭玄:「尚書中候」尚翼羅刑コ放]
尚、「太平御覽」(648)刑法部十四 黥の鄭玄注はこうなっている。・・・
《尚書刑コ放》曰:涿鹿者竿人也;黥者,馬羈竿卻舒也。
鄭玄曰:
 涿鹿,黥,箸先次刀笠傷人,墨市其中,
 故后世謂之墨土民也。

「酉陽雑俎」では、"刀墨之民"だが、「太平御覽」は"墨土民"の違いがある。
中身の方だが、はなはだわかりづらい。
「"涿鹿"とは、人の額[=]を鑿/のみでうがつことを言う。」と訳すしかないが、罪の名称の説明なのだろうか。・・・様々な勢力を束ねた総力を発揮することで、黄帝/軒轅がどうにか、炎帝系蚩尤[銅頭鐵額]を破った涿鹿の大決戦戦から来た言い回しだろうか。
一方、馬羈[=网+革+馬:手綱に繋ぐ、馬の頭部と頬に回す紐/絆]とは"馬籠頭"である。",竿"はそれに使われている竹材で刺すとか、抉ることを意味すると考えれば、頬に目立つ傷をつけることを馬の用語で現すということになろうか。こちらは、文身の伝統を持つ部族の表象でもあるから、そのような民ありということになろう。
《尚書大傳》
象刑は、普通は、巨大な象による踏みつけ圧死刑の用語だが、ここでは象徴刑[象指図形]。虞舜は人体を傷つけない、精神的な処断で刑罰済ませたという作り話。この場合、墨刑は、頭巾[p巾]を被ってすませたとされる。今村注には、古代[五帝代]は肉刑がなかったという説に基づくもので、古代を理想化する考え方との注意書き。
つまり、そのような言動を余儀なくされる時代に入ったということ。
(儒教は貴族の宗族崇拝の呪術的宗教である。従って、有力血族に対する肉刑は嫌うことはあろうが、基本的に天子と官僚による社会安定を旨としているから、肉刑忌避はありえまい。仏教的観念が入ってきて、はじめて、肉刑が残酷と認識されたと考えるべきだろう。)
《白虎通》
異本の文章の方がわかり易い。・・・
《白虎通》曰:墨,墨其額也。取法火之勝金也,得火亦變而墨也。[「太平御覽」(648)刑法部十四 黥]
刑罰としての"墨"は、あくまでも、額への入墨に限定されていたようだ。説明が理解できぬが、火が金に勝つという五行の考え方を援用したので、そうなったというのである。
《漢書》
肉刑を止めたと。墨刑相当は、刑、つまり丸坊主と、鉗を嵌められることになる。肉体に傷つけぬとの思想を名目的に取り入れただけで、現実生活ではかえって生活しにくかろう。その姿で就く作業とは、男は城旦[治城]、女は舂[治米]で、過酷な肉体労働奴隷としての懲役刑に服すことになる。囚人にとってはなんの意味もない変更だと思われる。
【晉令】
南北に分かれた頃か。奴隷の逃亡も一気に増えていた筈である。帝国は身分制を基礎としており、この制度で認知されない場合は、特例を除けば殺戮対象でしかなかろう。基本階層は貴族、百姓[平民]、奴婢と考えるのが自然であり、墨刑とはもともとは奴隷所有者による烙印だった可能性が高かろう。帝国の肥大化で、全面的実施は困難となり、刑罰に用いられたのだと思われる。
従って、非奴隷階層への墨刑は奴隷として扱われることを意味するから、宗族の社会的地位確立を第一義的に考える儒教信仰者にとっては耐え難いものとなろう。
しかし、奴隷階層から見れば、墨刑は勲章でもあろう。所有者にとっては、財である奴隷に逃亡されては大損害であるから、そのような体質の奴隷であることを示すマーキングが必要になったということだろう。
【梁朝雜律】
劫とは、仏教用語で時間の一番長い単位である。墨刑用の文字として広く使われていたようである。・・・
秋九月戊辰,詔定黥之制。有司奏:「自今凡劫竊執官仗、拒戰邏司、攻剽亭寺及傷害吏人,並監司將吏自為劫,皆不限人數,悉依舊制斬刑。若遇赦,黥及兩頬 '劫'字,斷去兩筋,徙付交、梁、寧州。五人以下止相逼奪者,亦依黥作'劫'字,斷去兩筋,徙付遠州。若遇赦,原斷徒猶黥面,依舊補冶士。家口應及坐,悉依舊結謫。」及上崩,其例乃寢。 [「南史」卷三宋本紀下第三 明帝紀]
どういう発想か、読んでもとんとわからぬが、ここでの"未斷"の囚人とは、即時死罪を申し渡すべきところ、裁定を延期してもらっているということでは。表立たない恩赦として、無期(“劫”)禁固刑に服していると読むこともできよう。

何故に、こんなことに成式が興味を持つかと言えば、中華帝国史で一番古くから存在し、それが消え去ることなく、時々の社会状況によって様々なバリエーションを生みながら連綿と続いているからである。しかも、それには必ず独特な美意識がつきまとう。
呪術的な護身符と称してはいるものの、各自の身分を含めたアイデンティティそのものでもあったからだ。
(倭では、地域によって異なる上に、その位置や大きさが身分を示しているとされている。換言すれば、その時点での中原〜朝鮮半島には、そのような習慣は存在していなかったたのである。)
そのようなアイデンティティの発露は、中華帝国にとっては唾棄すべきものであったのは間違いない。
(血族第一主義の宗教たる儒教から見れば、末裔が自分の意思で頂戴した身体に墨を入れて自己主張するなど、反儒教=反体制分子以外のなにものでもない訳で、即刻抹殺すべき対象と化す。)

従って、どうして、そこまで刺青に拘り続けるのか、考えてみると面白かろうと提起している訳だ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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