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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.9.11 ■■■

本の貸し借り

「續集卷四 貶誤」には、仏教徒で本の虫でもある成式の怒りが籠められていそうな記述も。・・・

今人雲,
借書、還書等,為二癡。
據杜荊州書告耽雲:
 “知汝頗欲念學,今因還車致副書,可案録受之。
  當別置一宅中,勿復以借人。
  古諺雲:
   ‘有書借人為嗤,借人書送還為嗤也。’”

今の時代、人々が言うことには、
書籍を借りるのも、それを返却するのも、等しく
  2つの"愚か"な行為である。
杜荊州
[荊州諸軍事を統括する鎮南大將軍の杜預[222-284年]の古称]
(多分、子息の)耽に告げた書面にこう書いてある。
 「汝が、頗る学問にかけたいとの一念を知った。
  今、帰還の車に託けて副書を届ける。
  その旨、記録した上で受領のこと。
  その上で、家の中で、別のところにとり置くべし。
  借りたい人がいても、二度貸しはするな。
  知っての通り、古い諺にある通りだ。
   "書籍を借りる人は嘲笑うべき存在。
    人から借りた本を返却するのも嘲笑うべき存在。"


(=痴)という表現はかなりのドギツサと言ってよいだろう。
仏教の三毒(貪/むさぼり+瞋/いかり、痴/おろか)であり、読経の前に「懺悔偈」を唱えるのだから。
 我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
 従身語意之所生 一切我今皆懺悔


今村注によれば、杜荊州が言っているところの古い諺とは李匡義:「資暇集」。・・・
李濟翁云:借書一癡,惜書二癡,索書三癡,還書四癡。
  [宋 「藝苑雌黄」]
借りるは愚。与えるのも愚。返却催促はさらに愚。返すなどもちろん愚。

ちなみに、相当な後世であるが、本居宣長:「玉勝間」一の巻 一四の姿勢と比べると相当な違い。・・・
[要旨]同じ志じゃないか。お互い気難しいことなしに貸し借りして、見せたり写したりしたいもの。
人に見せずに、独占することで誇るなど、実に心汚し。
もちろん、入手困難なものが、事情で戻ってこないこともある。そうなると心憂きこと間違いない。
そうならないように、貸す時は万一を考慮し、対応策を用意しておくべきである。
それにしても、借りたら返すのは当たり前というのに、用がなくなっているのに、放置して、返さない人だらけ。それが現実の世の中。

[原文]めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、ひなかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくどゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ 人の、よに多き物ぞかし、珍しい書物を持っているとしたら、親しい人にも疎遠な人にも、同じ学問を志している人には、お互いに気軽に借して、見せもし写させもさせて、世の中に広めたい事なのを、人には見せないで、自分一人見て、誇ろうとするのは、大変心汚く、ものを学ぶ人にあってはならない事である。  [出典:「ようこそ宣長ワールドへ」@本居宣長記念館]

ただ、今村注でも、注意を喚起しているが、「書」といっても、物理的には、上記のように車で運ぶような一大荷物。本居宣長が読んでいた頃の版木印刷の「本」とは体裁が全く違うから、そこは十分に思料すべきである。

小生は、そんなことより、愛書家といっても雑多な集合であるから、そう簡単に割り切れるものではないと思う。それこそ、コレクター狂から、只積読屋もいれば、活字中毒患者まで含まれているからだ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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