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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.9.19 ■■■

石筍と残渣珠

「續集卷四 貶誤」には、"しみじみ[瑟瑟]"する話もあるのだが、それに気付くためには読者の知識レベルにあった注がないとほぼ不可能。
そんな例。・・・

蜀石筍街,夏中大雨,往往得雜色小珠。
俗謂地當海眼,莫知其故。
蜀僧惠嶷曰:
 “前史説
   蜀少城飾以金璧珠翠,
   桓惡其大侈,焚之,合在此。
  今拾得小珠,時有孔者,得非是乎?”


石筍と書かれると、頭は自然と洞窟内の鍾乳石を描いてしまうことになるから、四川盆地の西の石灰岩地帯のことか、と勝手に判断して読んでしまう。
しかし、もしも以下の詩を知っていれば、そうなることはない。・・・
  「石筍行」 杜甫@761年 全唐詩 卷219
石筍在成都西門外。二株雙蹲。一南一北。陸游曰:「其状不類筍。乃累石為之。」

  君不見益州城西門,陌上石筍雙高蹲。
  古來相傳是海眼,苔蘚蝕盡波濤痕。
  雨多往往得瑟瑟,此事恍惚難明論。
  恐是昔時卿相墓,立石為表今仍存。
  惜哉俗態好蒙蔽,亦如小臣媚至尊。
  政化錯失大體,坐看傾危受厚恩。
  嗟爾石筍擅虚名,後來未識猶駿奔。
  安得壯士擲天外,使人不疑見本根。

[原注:"瑟瑟"] 石筍街乃真珠樓基。昔胡人立大秦寺。其門十間。悉以珠玉貫之為簾。後摧毀。故多瑟瑟。乃碧珠也。

"石筍"の地は成都にある。
墓石なので、唐代の観光地とは言い難いが、旧跡周囲に街ができていたのであろう。少なくとも、大石が聳えていたのは間違いない。
(中華帝国の風土を考えれば、この手の利用可能な遺物は、遠の昔に完全消滅しているに違いないが、残っていると言い張る筈である。そこらの話に立ち入ればどうなるかは、「酉陽雑俎」を読んでいれば想像がつく。)
ともあれ、相当に巨大な墓石だったようだ。
毎王薨,輒立大石,長三丈,重千鈞,爲墓志,今石筍是也。
  [「華陽國志」]

"海眼"の方だが、要するに泉。ミネラル分がかなり濃く、海水並に感じさせたのだと思われる。(道教体質の地であるから、海と繋がっているとされていたに違いない。道教の大詩人とは体質が違うので、杜甫はそのような話を信じなかったのであろう。)
清冽な割に栄養分がそれなりにあるから、苔むしていただけのこと。
どうして、こんな内陸部に海水が湧くのか、杜甫は魔訶不思議と感じたようである。

マ、杜甫は観察の人ではなく、何を表現するにしても自分の眼鏡を通すので、実相がわからないから致し方ない。

ご想像がつくと思うが、ここらは、石灰岩質の大小の洞窟が数々ある地域。仏の姿をした"石筍"もあったりする訳で、聳える墓石を"石筍"と呼ぶのはごく自然なこと。もちろん、石灰層だけでなく、厚い岩塩層も存在するから、そこから湧く地下水が塩水だったりすることはママある。
但し、地中層なので、急速に溶解しすぐに水脈も変わるので、いつまでも泉が続くことはない。
懐かしき地でもあるから、そんなことは、成式先生は百も承知の助。だからこそ、書名にもこの辺りの特別な洞窟名称の「酉陽」を取り入れた訳で。そんなことはおくびにも出さず書いているのである。官僚は家業だが、本職は文筆業と考えていたことがよくわかる。

要するに、この項では、"瑟瑟"とした話を書いているのである。

その地には、珠の暖簾を掛けた10間もある門があったかどうかはわからぬが、西域の珠で溢れかえった大寺が存在したのである。

インターナショナル感があり、様々な人々との交流を好んだ成式はそんなことは早くからご存知だが、地元に居る僧侶は知らないのである。
"石筍"近辺から出土する珠とは、かつての成都の繁栄の残渣であると見ているにすぎない。地場の僧 惠嶷が言う様に、成漢の少城があり、そこで宗室は栄華を極めていたのは間違いないから、その通りとも言える。
その繁栄に終止符を打ったのが、東晋の安西将軍 桓[312-373年]というのは、誰でもが知るところだし。
それは、347年のこと。桓自ら成都を侵攻し、城下並燒了城門。1ヶ月駐在し、その統治システムを完璧に崩壊させたようである。最終的には、成漢を滅ぼし、その功績で征西大将軍に昇進したのである。

ここでお話は了となるかと思いきや、成式はさらに珠の話に拘るのである。
珠とは、実は仏教寺院壊滅の名残でもあると見ている成式の気分で読まないとこの先はさっぱり面白くない。・・・

予開成初
讀《三國典略》,
梁大同中驟雨,殿前有雜色珠。
梁武有喜色,虞寄因上《瑞雨頌》。
梁武謂其兄曰:
 “此頌清拔,卿之士龍也。”

開成の初年[836年正月]に、唐 丘ス:「三國典略」を読んだ。
そこにはこんな話が。…
梁 武帝蕭衍の大同
[535-546年]年間のこと。
 俄而驟雨暴降,梁王輕輦還宮,至城而霽。
 觀者怪之。
[@「太平御覽」卷三二八]
驟雨で戻ると、宮殿の前に雜色の珠があったと。
武帝喜色満面。
臣下の虞寄
[510-579年]は、
 このタイミングを外さず、すかさず「瑞雨頌」を作り奏上。
そこで、武帝は兄の虞茘に対して、一言。
 「この頌は、
  貴卿のような"清白"という点で抜きんでている。
  東山居士の弟君だが、
  まさに"士龍
[陸機の弟, 陸雲[262-303年]の号]"なり。」と。

武帝は、機微をわかる臣下に応えるべく、
"「ニ陸」ならぬ「ニ虞」ゾ。"と持ち上げたのである。
その「ニ陸」。成都王の司馬穎に殺されたのである。その成都王の残骸とも言える珠が天から差し出されたのであるから、ソリャ瑞兆。
つまらぬことに映るが、余姚県虞氏とは有力な文儒の家柄。初唐の三大書家として超有名人だった虞世南とは虞茘の子。
儒教勢力がいかに強大かが見てとれよう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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