表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.10.8 ■■■ 家諱改造は不吉なりの文字の話。・・・王哲,虔州刺史,在平康裏治第西偏, 家人掘地,拾得一石子,朱書其上曰: “修此不吉。” 家人揩拭,轉分明,乃呈哲。 哲意家人情於畚鍤,自磨朱,深若石脈,哲甚惡之。 其年,哲卒。 [續集卷三 支諾皋下] 王哲が虔州の刺史だった頃のこと。 平康里に居住していたが、屋敷の西縁りを整備していた。 家人が地を掘っていたところ、1個の石を拾得。 その上には、朱書きで4文字が。… 「此の地の修繕不吉なり」と言うのである。 家人はその表面の塵をとり、拭ったのだが、 たちまちのうちくっきりとしてきたのであった。 そこで、王哲に贈呈することにした。 王哲は、 家人が土建作業に情けをかけているように感じたので、 自分で朱の部分を磨いてみたのだが、 それは深く入っているようで、まるで石に筋があるかの如き。 王哲は、これは甚だ悪い前兆とみなした。 その年のことである。王哲が亡くなったのは。 背景情報が必要だろう。 王哲とは王仲舒[762-823年]七子(初、哲、貞、弘、泰、復、)の次子。字は叔賢。兄と同時に進士及第。右拾遺,虔州[@江西赣州]刺史に任官。親も務めた職務である。["太原王氏源流頌"2015@中華家譜 福建省天時網絡科技有限公司] 兄の王初ともども、父親の名前の禁忌("家諱")に触れるので、避諱のために"亻"の画でそれを逃れたというのである。 それが、“修此不吉。”という評価に繋がったのである。 つまり、家の修理云々ではないのだ。 唐、長慶[821-824年]、太和[大和とすれば、827-835年]中、王初[長子]、王哲[次子],俱中科名。其父仲舒顯於時。 二子初宦,不為秘書省官,以家諱故也。 既而私相議曰。曰原作而,據許本改。 若遵典禮避私諱。 而吾昆弟不得為中書舍人中書侍郎列部尚書。 乃相與改諱,只言仲字可矣。又為宣武軍堂書記, 識者曰:「二子逆天忤神,不永。」 未幾相次殞謝[死亡]。〈(出《獨異志》) [「太平廣記」卷第二百六十一 嗤鄙四 王初昆弟] (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |