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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.6 ■■■

呪文字人柱も鉄砲水には無力

何故に植物として「柱」を取り上げるのか、よくわからないが、中華文化では樹木と材木の間に境は無いのかも。・・・

古文柱,齊建元二年夏,廬陵長溪水沖撃山麓崩,
長六七尺,下得柱千余根,皆十圍。
長者一丈,短者八九尺。
頭題古文字,不可識。
江淹以問王儉,儉雲:
 “江東不閑隸書,秦漢時柱也。”

 [續集卷十 支植下]
【古文柱】の話
南斉
[479-502年]の高帝蕭道成の治世、480年の夏のこと。
廬陵郡
[揚州西南境:江西吉安@吉泰盆地]を流れる長溪水が氾濫し、山麓を直撃したため、大規模な山崩れが発生した。
長さにして6〜7尺の柱1,000本余りが土の下からでてきた。根元は、皆、広さが十囲もあり、長いモノは1丈、短いモノでも8〜9尺あった。
その頭には古文字が記載されていたが、意味がわからなかった。
そこで、
江淹
[444-505年]が王儉[452-489年]に質問した。
王儉の答えるには。、
 「江東の人は隸書に精通していない。
  これらは、秦漢時代の柱である。」と。


これは「南齊書」五十九卷の記述である。
建元二年夏,廬陵石陽縣長溪水衝激山麓崩,長六七丈下得住千餘口,皆十圍。長者一丈,短者八九尺。頭題有古文字,不可識。江淹以問王儉,儉雲:江東不閑隸書,此秦漢時柱也。
後年宮車晏駕世變之象也。

但し、お尻の1行は削除したようだ。

1,000本余りの太い樹木を杭に使った、秦や漢大帝国が行った治水工事では、一本一本に呪術的な人柱供犠が行われたと思われるが、そこまでしたところで自然の猛威の前にはひとたまりもないのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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