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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.27 ■■■

[学び] 道佛教

現代世界の「道徳」はベースとなるべく基準を失っているため、事実上、各個人のお好みや、ご都合主義で決まるようになってしまった。従って、相反する倫理観が併存する混迷状態なのだが、そうした現実を直視したくない人だらけなので、「多元的価値観」の時代到来と呼ぶことになる。
そうした社会には何の合理性もなく、あるのは情緒的で空虚な"連帯感"だけ。どうあれ、道徳的倫理観は成り立たなくなってしまったのである。
「酉陽雑俎」を全巻通して眺めると、そのような現代社会の特徴が見えてくる。

中華帝国の社会は、個人の精神生活の領域まで官僚が管理する「儒教」的道徳律が主導していたようである。勿論、名目だけだが。しかし、そうなるのは中味が高尚という訳ではなく、有り得ない"理想"の政治体制"中夏"樹立に向かって奮闘することを、その道徳観の基底に置いていたからである。
にもかかわらず、それが、主流化したのは、現生における「宗族繁栄」を第一義とする宗教だったからにすぎまい。他宗族排除の「祖先崇拝」儀式への傾注で、血族的身分社会の安定化を図ったことが、時代の要請に合致したということ。
ただ、体面上、人は善を希求する生き物という情緒的主張をこれに被せたので、社会道徳的な主張をしているように映るに過ぎない。(日本はこの部分だけ導入したようである。)

従って、成式のような、多様化社会を愛するインテリは、排他的宗教である儒教とは相いれない。
と言っても、中華帝国統治という観点では、儒家・法家・墨家が打ち出す独裁者と軍民官僚による統治以外に戦乱を防ぐ政治体制を考えることができなかったから、封建的身分制度固定化は、社会の安定のためには致し方なかろうという姿勢だったのは間違いないが。

つまり、成式が支持する思想は、自動的に反儒教の「壺と貝」となる。それは、儒教の世界からすれば、「虚と怪」だったかもしれない。両者が歩調を合わせることで、高度な思想となり、精神世界から儒教的統制を駆逐することになるからである。
従って、この当たり前のことに気付かせようという意図で、「酉陽雑俎」を執筆したとも言えよう。

その辺りをご説明しておこう。

誰が読んでも、道教経典記載の"宇宙"というか、天〜地獄の内容は、仏教経典の丸写しである。
戒律にしても、以下のように、「佛教沙彌戒」をママ取り入れたものである。
《太上老君戒經》 【五戒】
  第一戒 殺
  第二戒 盜
  第三戒 淫
  第四戒 妄語
  第五戒 酒

《洞玄靈寶六齋十直經》 【五戒】
  一不得 殺生
  二不得 嗜酒
  三不得 口是心非
  四不得
  五不得 淫色

《老子化胡經》 【十二戒】
  一不 飲酒醉亂
  二不 殺生食肉
  三勿 罵詈咒人
  四勿 欺詐他人
  五勿 盜貪利
  六勿 淫佚好色
  七勿 慳吝不施
  八勿 剛強不自屈
  九勿 遠視極聽
  十勿 多言煩語
  十一勿 恚怒心怨恨
  十二勿 淫祀邪鬼


もともと、民衆の道教とは、中華帝国内各地の土着民俗的信仰をご都合主義的にまとめたもの。コピーはお手のもので、どうということではない。
ただ、老子が西域に入り、そこから天竺に入り仏教をつくりあげたとの話を記載されると、余りの荒唐無稽ぶりというか、噴飯ものと解釈してしまうかも知れない。
しかし、よくよく考えてみると、これは仏教勢力が創作して、自ら流布した可能性の方が高そう。仏典を漢訳するにあたっては、すでに通用している概念を使うしかなく、「空」を表現するのに最適なのは老子の「無」となるからだ。仏教とは老子の思想「無為自然」の再来とされて当然だからだ。いかにもインテリ臭を醸し出す老子の思想を持ち出すことで、社会の上層部への浸透を図ったのであろう。(ただ、仏教はその境地に至るためにはそれなりの"行"が必要ということになるが。)
おそらく、経典に裏打ちされた宗教教団としての道教を成立させる過程で、こうした仏教勢力の動きに対応する形で、初めて"道教=老子"との思想が確立されたのであろう。

このことは、中国仏教と道教は、手を取り合って、中華帝国のなかで育ったということでもある。
仏教勢力が、バラバラで教理もわからない習俗的信仰の宗教化を援助したと見ることもできるし、そんな民俗信仰と習合しながら普及を図ったとも言えよう。・・・「酉陽雑俎」はその実像を語っているのである。

考えてみれば、伝来してきた仏教は、西域色濃厚で、経典は外国語だし、使われている単語の概念もよくわからぬ宗教だったに違いないのだ。僧侶の姿にしてから、異様そのもの。そのような宗教が、そう容易く社会に浸透する訳がない。
しかし、帝国の権力者にとっては、交易活動で富を得るには、なんとしても取り込みたいインターナショナル勢力だったから、中華帝国の風土に合うように変身して欲しかった訳で、ある意味、それに応える形の仏教普及が進められたと考えるのが自然である。

その結果、一気に仏教の中国化が進んだと考えられる。

その第一歩が、老子の取り込みだろう。
仏教とは、人々の心の隅に抱えていた"老子"的心情がベースということで、布教が進んだと思われる。要するに、民衆に対しては"無病息災招福繁栄"をもたらす宗教ということで、社会に浸透していったのであろう。"釈尊"は「山海經」における、神的人とされ、"仏陀"は"天帝"扱いされることになる。
極めて分かりやすいコンセプトといえよう。

それが、大いにウケたのは、反"宗族"感情に合致したからでは。
それに加えて、儒教の礼や占術や外交指針になんの意味も無し。簡単明瞭な事実でわかること。・・・
魯國服儒者之禮,行孔子之術,地削名卑,不能親近來遠。
  [西漢 劉安:「淮南子」卷十一 齊俗訓]
魯国では、儒教の教えたる"儒者の礼"に服し、孔子の主張する技術で政治をとり行ったのだが、領土は削られる一方だし、名前は卑しめられ、近隣勢力との親交も実現できず、遠方からの使節来訪も無き有様。
社会は、儒教の"宗族"信仰一色に塗り込められており、祖先祭祀と家長葬儀をできる限り壮大に執り行うことが強制される状況に対する反発が存在していたということ。・・・
三月之服,是絶哀而迫切之性也。夫儒、墨不原人情之終始,而務以行相反之制,五之服。悲哀抱於情,葬薶稱於養,不強人之所不能為,不強人之所能已,度量不失於適,誹譽無所由生。
3年間喪に服す規定は、切迫状態を迫るようなもので、哀悼的人情の本質[=人の終始]を断絶させる意味しかない。それこそが儒教なのだが、墨家の主張も同じ。人情の本質を敢えて断ち切るような所業。
要するに、本性の哀悼の心情と相反する行為を無理に努めさせることに意義ありというのである。
そもそも、服喪に
(その期間が)5種類ある理由は、悲哀をその感情を抱いている間はそれを表したいということで作られたもの。埋葬の儀は、生前の養育状況に合わせるべきである。
人に出来ぬことを強いるやり方や、人の感情を強制するようなことはすべきでない。
服喪のレベルが適度でありさえすれば、誰も謗りをしたりはしないもの。


「道佛教」は、"宗族"支配を嫌う気分に合致した訳で、それは同時に、反儒教としての薄葬化運動でもあったろう。

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