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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.28 ■■■

[学び] 老子的宇宙論

「酉陽雑俎」を通巻で読み通すと、様々な考えが浮かんでくる。
自己主張を避け、文献からの引用や、確実そうな伝聞をもとに、様々な情報を突っこんでいる箇所だらけなので、読む方としてはどうしてこのような話に興味を覚えたのか、考えさせられるからである。

と言うのは、迷信的な信仰だらけの社会であるが、民衆の気持ちを踏みにじるべきではないといった要旨が、別書に残っているからでもある。
しかも、都での仏教徹底弾圧の結果を見ての悲哀感溢れる随筆を収載したにもかかわらず、国家宗教化している道教関係の話満載とくる。

従って、この本は、そのような心情を感じ取ることができないと、さっぱり面白くないのである。
そのかわり、なんとなくでも、それがわかってくると、個別の話の意味がわかってきて、「酉陽雑俎」に流れている"思想"に被せられていたベールが剥がれてくるのである。

例えば、段成式の宇宙観は、道佛教的なものかも知れぬという気になってくる。その観点から、「老子」の宇宙観が理解できるようになる訳だ。

ということで、そこらを取り上げておこう。

その「老子(道徳経)」だが、素人からすれば、無為自然の政治的姿勢を取り上げた箴言集以外の何物でもない。その主張に当たっての、理由付けに、哲学的というか宇宙論が多少は記載されているだけ。
全体の流れが体系だっていないので、哲学書とは言いかねる。そもそも、雑然としており、なんとなく宇宙論らしき主張も存在しているという程度でしかなかろう。
従って、宇宙論というか、哲学を読み取ろうとしても、簡単にできるものではない。
しかも、文章があまりに簡素であるため、読み手の気分に合わせてどうにでも解釈できそうとくるから、厄介極まる。

但し、哲学書的雰囲気に欠けている訳ではない。
と言うのは、冒頭に、宇宙創成的な話が来ているからだ。(いかにも、後世、編纂されてこの位置に突っ込まれた印象。)

この部分を、小生流に解釈するとこうなる。・・・
  道,可道也,非恆道也。
  名,可名也,非恆名也。
  「無名」天地之始;
  「有名」萬物之母。
  故,
  常「無欲」以觀其妙;
  常「有欲」以觀其徼。
  此兩者,同出而異名,
    同謂之玄。
  玄之又玄,衆妙之門。
 [一章]
色々ある道のなかで、
  これこそが本当の道と言えるのは、
  恒常的な道ではない。
色々ある名のなかで、
  これこそが本当の名と言えるのは、
  恒常的な名ではない。
つまり、
(噛み砕いて言えば、)
名が「無い」状態とは、("何モノか解らない"ということであり、)
  天地開闢、宇宙創成の始原を意味するし、
名が「有る」状態とは、
("モノとしての実体あり"ということであり、)
  そこから萬物が産み出されたことを意味するのである。
故に、
欲が「無い」状態とは、
  
(道の)"妙(=蒙昧)なる様"を観ていることになり、
  
(換言すれば、万物が現れる直前の世界を見ている訳で、)
欲が「有る」状態とは、
  
(道の)"徼(=明白)なる様"を観ていることになるのである。
  
(換言すれば、万物が消え去る直前の世界を見ている訳だ。)
此の両者(即ち、宇宙創成の始原と万物を産む母胎)は、
  出自は全く同じであるにもかかわらず、名は違うのである。
その名を、同一にして呼ぶなら、【玄】である。
その【玄】のなかで、更なる【玄】こそが、
  宇宙の全てに通じる"妙"の門ということ。


いかようにも解釈可能であり、わかったような、わからないような。無理矢理、"無為自然"を当て嵌めるしかなさそう。
凡人のために書いている訳ではなく、為政者のための書であるから当然ということか。マ、"わからないからこそ、深遠なり"なのであろう。

「正+反⇒合」は西洋の弁証法的発想だが、その真逆の「玄⇒天+地」=「道」という論述にも思えてくる。論旨がわからない大きな理由は、"故に"と書いてあるが、その論法がはなはだ不透明だからでもある。
しかし、素人にとっては、この【玄】と以下の【自然】がどう繋がるのか、はなはだ理解し難いから、頭が固まってしまうのである。
しかし、「酉陽雑俎」的に考えてみれば、これこそ反儒教精神の核心であることに気付かされる。インテリはこの箇所を読んでうなったに違いないのである。・・・
  有物混成,先天地生。
  寂兮寥兮,獨立而不改,周行而不殆,可以為天地母。
  吾不知其名,
  字之曰道,
  強為之,名曰大。大曰逝,逝曰遠,遠曰反。
  故道大,天大,地大,人亦大。
  域中有四大,而人居其一焉。人法地,地法天,天法道,道法自然。
 [二十五章]
混成したモノが、天地が生まれるに先だって、存在していた。
 それは、
 寂々
(物音一つ聞こえず)、かつ寥々(ものさびしい)とした状態であり、
  
(限りなく無音で全くの無形ということになる。)
 孤立し、なんの束縛もなく、独自にして、不変。
  
(絶対的存在で、周期的変化はあるものの、永久不滅。)
 そこで、コレを天地の"母"とみなすべし、となる訳だ。
しかしながら、吾輩は、その名を知らない。
  
("何モノか、その実体は、解らない"ということである。)
ただ、綽名で呼ぶことはできる。
 コレを字して、"道"。
 しいて、名をつければ、"大"。人もまた"大"なのだ。
  拡大するから、"逝ってしまう"ことになり、
  "遠ざかる"と呼ぶことになるが、
  "遠ざかる"から、逆方向に戻るので、"反"とも言える。
と言うことで、
【道】は"大"であり、【天】も"大"、【地】も"大"。
 そして、【人】も又"大"なのだ。
  
(天,[=頭頂]也。至高無上,從一、大。[@「説文解字」])
つまり、宇宙には4つの"大"があるということになり、
 【人】の存在はその1つにすぎぬ。
その関係性はこうなる。
 【人】は、【地】の法則に従う。
 【地】は、【天】の法則に従う。
 【天】は、【道】の法則に従う。
 【道】は、【自然】の法則に従う。


【玄】論では明確ではなかったが、この論述で、【天】が絶対的存在でないことが示されている。【天】帝の意向を受けて【地】で活動する"天子"こと"帝王"の存在は否定されていると言ってよかろう。
聖書やゾロアスター教のように、【天】におわす絶対神が宇宙を創造することはないし、そもそも、宇宙の主宰者の存在を信じるのは迷信と主張しているようなもの。
道佛教的に言えば、宇宙の始原は物質感なき【空】ということになろうか。

一方、儒教では、宇宙はすでに存在しており、ソコが出発点となる。
ソコには最高神で、人格はあるものの、身体はなさそうな【天】帝が居る。【人】を作ることもあるが、それはどうでもよい話。存在意義のポイントは、あくまでも、特定の一族に【地】を統治させること。【天】帝と天子の意思疎通で社会が動くという仕組みを肯定するのが、儒教の本質である。これに邪魔な思想はすべて、抹消する姿勢をとらざるを得ないのである。
つまり、この構造に諾々と従う官僚制度はどうあるべきかが、議論の焦点となる。独裁者を支える統治機構のあるべき姿を描くだけだから、非宗教に映るが、強烈な信仰が根底に流れている宗教そのもの。
当然ながら、どうして宇宙が生まれるかなど、無駄話にすぎない。ただただ、宗族の繁栄を願う宗教だからだ。従って、宗族の利益にかかわりない"自然界"に関心が払われることはない。もともと、「自然」という概念さえ無い信仰と考えて間違いなかろう。ただ、それでは宗族繁栄に都合が悪いとなれば、内容改訂になるだけ。

「酉陽雑俎」は、奇妙奇天烈な動植物をいくつも紹介しているが、それは単純な博物学的興味からではない。自然界が多種多様な生命からなっており、人とは違った世界で生きているものも少なくないことを、示しているのである。

  ─・─・─ 道 ─・─・─
「老子」十四章には、ダラダラと続く説明がある。・・・
視之不見,名曰夷;
聽之不聞,名曰希;
搏之不得,名曰微。
此三者,不可致詰,故混而為一。
其上不t,其下不昧,繩繩兮不可名,復歸於無物。
是謂無状之状,無象之象,是謂恍惚。
迎之不見其首,隨之不見其後。
執古之道,以御今之有。
能知古始,是謂道紀。

道は、いくら注視しても見えない。
 そこで、"夷"
(一様な無形状態物)と名付ける。
道は、いくら傾聴しても聞き取れない。
 そこで、"希"
(無声)と名付ける。
道は、いくら搏撃しても捉えることができない。
 そこで、"微"
(ほんの僅かな様子)と名付ける。
この3者は、詰問すれば、解明できる筋合いのものではない。
つまり、
道とは、混然一体化したものなのである。
その一体化したものは、
上がt
(明るく光かっている)ということではないし、
下が昧
(薄暗い)ということでもない。
延々と繋がっていて、名付けることは無理である。
つまるところ、それは、
原初の「無」物の状態に復帰したと見なすことができよう。
そこで、コレを無状の状態、かつ、無象の象形と謂い、
総合的には、惚恍
(意識がはっきりしない様)と謂うのである。
コレを迎えるに当たって、
先頭を見ようとしても無理であり、と言って、
後ろに従っても、尻が見えることも無い。
道は、
古き頃の、始めの道の時代から、その本性を把握しており、
それによって、現今の万物有りの状況を制御しているのだ。
つまり、万物の始原を知っている訳だ。
これをして、"道紀"
(道の本質)と謂う。

  ─・─・─ 玄 ─・─・─
葛洪[283-343年]:「抱朴子」の本文冒頭は、"抱樸子曰"から始まる《【玄】について のぶれば》篇[内篇 卷一 暢玄]
くどい説明が延々と続く。・・・
玄者,自然之始祖,而萬殊之大宗也。眇眛乎其深也,故稱微焉。綿乎其遠也,故稱妙焉。
其高則冠蓋乎九霄,其曠則籠罩乎八隅。光乎日月,迅乎電馳。或倏爍而景逝,或飄而星流,或滉漾於淵澄,或雰霏而雲浮。

因兆類而為【有】,託潛寂而為【無】。
淪大幽而下沈,辰極而上游。金石不能比其剛,湛露不能等其柔。方而不"矩",圓而不"規"。
來焉莫見,往焉莫追。乾以之高,坤以之卑,雲以之行,雨以之施。
胞胎元一,範鑄兩儀,吐納大始,鼓冶億類,
旋四七,匠成草昧,轡策靈機,吹【四氣】,
幽括沖默,舒闡粲尉,抑濁揚清,斟酌河渭,摧V不溢,
之不匱,與之不榮,奪之不瘁。

 【玄】之所在,其樂不窮。
 【玄】之所去,器弊神逝。

【玄】とは、
(もともとは黒色を指すが、) 自然の始祖という意味である。
殊更に言えば、万物の大宗を成しているモノ。
 よく見えないほど深いから、"微"、と称されるし、
 はるかに遠いから、"妙"と称されている。
その高きこと、則、九霄
(天)を冠で蓋をしているレベル。
その広きこと、則、八隅
(方)を籠を被せているレベル。
まさに光であるから、日月であるし、
迅速でもあるから、電に馳せるとも言える。
或いは、爍々としている光があっという間に去る有様、
或いは、飄々としている星があっという間に流れ行く有様。
或いは、滉漾
(広くて深い)として、淵のように澄み渡り、
或いは、雰霏
(浮揚し飛動)として、雲のように浮かぶ。

その【玄】だが、
形象の兆しを著わせば、【有】となるし、
静寂の中に潜んでしまうと、【無】となる。
落ち込めば、幽界の奥に沈むし、
浮き上がれば、北極星の上で浮遊することになる。
金属や石とは比類すべくもなき剛硬性を示し、
その柔軟性は露も実現しかねるほど。
方形だが、定規で測れるようなものではなく、
円形でもあるが、コンパスでの把握もしかねる。
居るところに行ったとしても、見ることができないし、
去ったからといって、追いかけてもどうにもならない。
天はそんなことで、高い所に。
一方、地は万物を包み込み
(坤)、はなはだ低い位置に。
雲はこれに沿って運行し、
雨もそれに従って降ることになる。
つまり、【玄】は、
唯一の大元を内部に胚胎しているということ。
従って、
これこそが、陰と陽の両儀的範疇と言えよう。
つまり、
その吐息は、命の始原であり、
億にも達する多種多様な陶器や鋳物を生み出す、
火おこしの風のようなもの。
天は、四七
(=28)の星座(宿)を巡らせ、乱雑ではあるものの、
匠の仕事のように、万物創造に漕ぎ付けるのである。
その上で、馬に鞭打つ如く、神秘な世界に動きを与え、
四季の氣の呼吸を始めさせる。
隠れてひとまとまりになれば、離れて拡がり黙りこくる。
伸ばして広がれば、粲然たる
(きらめく)火のし(アイロン)に。
そして、
濁れた水は抑え込み、清らかな水をもち揚げる。
ほどよく河の水をくみあげるし、水を増やしても溢れることはない。
汲み取ったからといって、乏しくなったりはしないのだ。
と言って、与えられたからといって、栄えることもない。
もちろん、奪われて憔悴することもない。
と言うことで、
【玄】がここに存在していれば、その楽しみに窮することなし。
しかし、【玄】が居なくなれば、その途端、
精神の器である肉体が疲弊し、精神は逝ってしまうのだ。


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