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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.12.30 ■■■

[学び] 階級ありとて差別なき社会

何度も書いていることだが、「酉陽雑俎」を怪奇譚の書としたい人は多いが、全編を読み通せば、その範疇に入らない本であることはすぐにわかる。
それ以外の話が沢山詰まっているから、わかりそうなもの、と言いたいのではない。どう考えても、興味から、怪奇譚を集めてみようということで書かれたとはとうてい思えないからである。

それでは、この書は、どういう気分で執筆されているのか、考えてみよう。

それには、「老子(道徳経)」を眺めてみるとよい。ヒントがゴロゴロ見つかるからである。

ということで、「老子」の解釈が難しいと見える章を取り上げてみよう。
(本屋の棚に何冊かある翻訳文を立ち読みしてみたが、素人にはストーリーがとんとわからない文章もあるし、他と全く異なる話に仕上げてあったりと、ナンダカネ〜である。)

実は、「酉陽雑俎」の感覚で解釈すると、なんの難しさもなく、以下のようになる。これで正しいのかは、ナントモ言い難いが。・・・
聖人常無心,以百姓心為心。
善者,吾善之;
不善者,吾亦善之;
  コ善。
信者,吾信之;
不信者,吾亦信之;
  コ信。
聖人在天下,歙歙焉,為天下渾其心,
百姓皆注其耳目,聖人皆孩之。
 [四十九章]
本物の聖人は、(「無為自然」を意識して生きている訳ではなく、
  ドグマで固まらないようにしているだけであり、)
  恒常的に同じ心である訳がない。
  
(恒常的なのは、聖人と呼ばれる、孔子のような原理主義者だけ。)
本物の聖人なら、
一般の人々の心を自分自身の心とするから、
感情は揺れ動くのである。
本物の聖人なら、こういうことになる。
(世俗的に)善人とされているなら、
  その通りとみなし、善人として対応する。
しかし、
(世俗的に)善人で無いとみなされていても、
  善人として、同様に対応する。
  人が持っている本性たる徳は、もともと善だからだ。
  
(恣意的な評価で人を差別するなど、言語道断。それが聖人の考え方。)
(世俗的に)信用できる人とされているなら、
  その通り、信用できる人と見てよいが、
(世俗的に)信用できないとみなされている人でも、
  信用できる人に違いないと考えて、対応する。
  人が持っている本性たる徳とは、もともと信だからだ。
  
(糾弾されている嘘つき野郎を排除するのは、暴虐行為。それが聖人の考え方。)
従って、本物の聖人の、天下に於ける姿勢は、
  先ずは、鳥が一ヶ所に一斉に集まるように
  人々の心のたけを集約することから始める。
  そして、それと混然一体化した心を持つことになる。
  
(従って、本物の聖人の心はいたって曖昧に映る。
   これが、自称、聖人だと、ドグマで固まっているから、恒常的な心になる訳だ。)
一方、一般の人々は、皆、耳目をそばだて、
  聖人を見つけようとする。
  
(皆、心配がつきないから、心が不安定なのだ。
  本当の聖人は、こうした凡人と心を共有。従って、見かけは凡人。
  だが、本当の聖人だから、必ず皆の前に現れるのである。)
  そんな状況を理解している、本物の聖人は、
  皆を赤ん坊のように優しく扱うのである。


かなりキリスト教的な雰囲気が出ているが、仏陀の優しさも同じようなもの。一般の人々と、精神的紐帯を形成するからこそ、聖人なのである。そして、その感激を味わった人々が、逝ってしまった聖人を神の地位に引き上げるのだ。

成式は、そこらを理解していたのではないか。

例えば、「卷八 黥」を読めば、伝統の入墨文化への尊重姿勢が伺えるし、刺青パンクに対する暖かい視線も感じる。さらには、逃亡奴の額に印をつけることへの怒りも。
このような手の書は、滅多になかろう。

もちろん、仏教徒であるから、「續集卷七 金剛經鳩異」のような靈験あらたかな仏教の話も書いている。しかし、同時に、腐敗する仏教勢力の実態もあますところなく紹介している。誘拐業者や殺しを厭わぬ盗賊一味まで加わっているのだから、凄すぎだが、問題点を指摘して教団批判につなげようと考えている節は全く感じられない。担々と社会現象をピックアップしているだけ。怪奇譚収載姿勢となんらかわらないのである。

こうした問題をどう感じるかは、人によって違う訳で、絶対的評価などできる訳もなく、他の問題との相対評価がどうやらできる程度だから、そんな姿勢を貫いているのだと思われる。
下手に、解釈でもすれば、かならず儒教ドグマからの評価が絡んでくるから、それだけは避けたいということ。

つまり、皆さん、こんな仏教をどう思う?という調子で書いているといえそう。
そして、その「皆さん」だが、明らかに為政者ではないのである。インテリのお仲間に読んでもらえれば、それで結構なのだ。

王侯貴族-一般人(百姓)-奴婢という階級社会のなかで、それはほんの一部の読者にすぎぬが、「酉陽雑俎」に収録されている話は、その全てをカバーしている。家人(奴婢)や百姓からの、直接伝聞もあり、差別感や偏見をできる限り取り払って書こうとしている姿がありあり。

これだけでも、画期的書とはいえまいか。


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