表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.1 ■■■ [学び] 段成式と人物としての老子非常識ではあるが、「酉陽雑俎」と「老子道徳経」を比較してみたい。当たり前だが、両者がよって立つ位置は全く違う。・・・ 【国家存立状況】 中華大帝国(グローバル) v.s. 乱立小国(ローカル) 【時代の特徴】 円熟文化 v.s. 戦乱 【政治的主張】 皆無(隠蔽) v.s. 全面的 【想定読者】 インテリ層 v.s. 為政者 【中身】 雑多(無説諭) v.s. 政治的箴言 しかし、共通な点がある。それは、反儒教。 但し、「酉陽雑俎」は表面上はおくびにもださず調で。 一方、「老子」は徹頭徹尾それに拘っている。 この根底にあるのは、「固定観念」の押しつけを許すなという感情であろう。そして、そこから必然的に生まれる差別強要体質に対する嫌悪感。 そういう点で、段成式と人物としての老子はよく似ているといえそう。と言っても、老子は実在しないというのが通説らしいが、その人となりが読み取れる箇所が唯一箇所あるので、眺めてみよう。・・・ 唯之與阿,相去幾何? 美之與惡,相去若何? 人之所畏,不可不畏。 荒兮,其未央哉! 衆人熙熙,如享太牢,如春登台。 我獨泊兮,其未兆; 沌沌兮,如嬰兒之未孩; 儡儡兮,若無所歸。 衆人皆有餘,而我獨若遺。 我愚人之心也哉,沌沌兮! 俗人昭昭,我獨昏昏。 俗人察察,我獨悶悶。 淡兮,其若海,望兮,若無止。 衆人皆有以,而我獨頑似鄙。 我獨異於人,而貴食母。 [二十章] 【ご注意】 原文1行目は割愛したのではなく、前章の末尾文とみなしただけ。 「ハイ(唯)」と「エエ(阿)」の肯定意思表現に、 一体、どれくらいの違いがあるというのだ? 「素晴らしい(美)」と「悪行だ(惡)」の価値評価表現に、 一体、どの程度の差があるというのだ? とはいえ、 人々が「畏れる」と言う、嫌な場所を、 それを好む場所とは見なせないから、 畏れずにはいられない。 しかし、その対称範囲は広いし漠然としすぎ。 (そんな嫌なものは無くしてしまおうと考え、) いちいち対応していたら、キリが無かろう! 世の中の多くの人々は、 大御馳走を頂く時のように、 さらには、春、高台に登って、景色を眺める時のように やわらいだ気分で楽しんでいる。 ところが、吾輩ときたら、 一人っきりで、留まったまま。 活動しようという兆しさえ起こらない。 どんよりと滞留した気分で、 まだ笑う事を知らない赤ん坊のようだし、 疲れきって落ちぶれた気分でもあり、 帰る所もない状態のようである。 世の中の多くの人々は、(心から充実しており) 有り余る状況なのに、 吾輩ときたら、(心に虚しさが満ちており) 独りだけ、すべてを遺失してしまった状況に陥っている。 吾輩には、まさに愚人の心あるのみ。 どんよりと滞留した気分そのもの! 世間の人達は、明るく輝いているが、 吾輩だけは、独り、暗くてはっきりしない状態。 世間の人達は、汚れなく潔白な気分でいられるが、 吾輩だけは、独り、(塵や泥にまみれ)悩み苦しむ。 とは言え、執着は無いし、さっぱり気分だから、 まるで静かな海のようであり、 ただただ遠くをボゥーと見やるだけで、 (その海をのたりのたりと漂っているようなもの。) そのような心の動きを止めることさえできない。 人々は皆、なんらかの形で社会生活を送っているのだが、 吾輩だけは、道理がのみこめず、卑しく愚鈍とくる。 だが、吾輩独りだけが、人とは異なる点がある。 天地の乳母の懐に抱かれているのだが、 それを、ことのほか貴んでいるからだ。 ドグマを金科玉条として掲げる儒者は意欲満々で英俊明哲とくる。その教えとは、所詮は、権力奪取と富の獲得を目的とした宗族支配を安定化させるためのもの。だからこそ、独裁者と統治機構に属す人々にとっては、離すことができない宗教なのである。 それを知りながら、為政者に無為自然を説いてどうなるものでもなかろう。馬の耳に念仏がせいぜいで、無駄なこと。 それを考ええると、老子より、成式の方が余程自然体である。 勿論、顰蹙ものの豪勢な食卓の日々を謳歌した家の出身であるし、そのような食事の楽しさを棄てる考えも無い訳で、煩悩はすてられぬというお方でもある。 しかし、バチ当たり的食を止められぬ僧侶もいる訳で、致し方なしといったところであろう。 ただ、成式の反儒教の根源は、反科挙にありそうな気もする。「酉陽雑俎」には、及第・落第人物は限りなく登場するし、秀才も何人も。 その実態はよくご存知だった訳で、ともあれ論語と注釈書の丸暗記が必須。それに加えて、史書や公定化している詩文も覚えることになる。その上で、それらを絡ませる能力を鍛え揚げるのだ。こんな馬鹿げた"学び"になんの意味があるのだ、といったところではなかろうか。 従って、選抜された人物に碌な者はいないと考えていた筈である。なかなかの切れ者は、例外的存在ということ。 従って、そんな感覚を共有する人々が、成式のサロンに集まったであろう。 だからこそ、皮肉を凝縮したような連句を作って楽しんでいる訳だ。科挙に用いられない材料を用いた、科挙同様な"創作"遊びであり、皮肉以外のなにものでもなかろう。 中華帝国の文芸は、日本とは大きく違い、詩歌の世界であっても政治的話題がちょくちょく登場する訳で、それほど粋がっているのではなく、軽い気分で行っているのである。 このような、お気軽さが感じられるから、「酉陽雑俎」はインテリに広く受け入れられたのだと思う。 一方、老子は、原理主義者の孔子同様、遊び心がなさすぎ。 笑って生きることができなければ、無為自然とは言い難いと思うが。 マ、成式は"クラス"だから、笑のある生活が送れると言えるのかも。世間一般を見れば、笑に縁のない苦しい毎日を過ごすしかない人だらけだった可能性も。 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2018 RandDManagement.com |