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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.2 ■■■

[学び] 道教医学の進歩の桎梏

「道教医学」と言うと、迷信的イメージがつきまとうが、現代の反科学的"自然"志向と五十歩百歩であろう。

「酉陽雑俎」を読み通すと、"無為自然"の鉄則を遵守するなら、現代の世俗的主張より科学的と言えるかもしれない気になってくる。

なにせ、現代の反科学勢力の主張は凄まじいものがある。
確実な検証データは見ようともせず、恣意的に得た断片的データを真実とし、すべて問答無用。迷信以外の何物でもないが、当人はそれが科学と信じているのだ。
それに対して、"無為自然"とは、対象をじっくり観察してそれに従うという思想と考えれば、そのような姿勢の方が科学的と言わざるをえまい。

段成式は観察が鋭い人だが、それは自然を読む力があるというだけでなく、そのような行為を重視していたからだと見る。
従って、段成式は医家を評価しており、薬草類の経験論をまとめた道士執筆書を有用と記載している。しかし、それは当時の感覚とは大分違っていた可能性が高い。(当時のピカ一は仙薬提供者であり、呪術に長けていないと、一流とは呼ばれていなかったから、理屈もないし、系統的な整理も今一歩である薬草類処方の価値は相対的に低かったということ。)

ただ、時代的な制約を考えれば、それはおかしなことでもない。
大流行しがちで致死性の伝染病(チフス, コレラ, ペスト, 赤痢, 天然痘, ….)に、一番効いたと評価されるのは、おそらく呪術と思われるからだ。(道教医学では、太刀打ちできない訳で。)
死病でなくても、プラセボ効果という観点で、呪術はそう悪くない成果を出していた可能性もあろう。(現代でも、原因不明な病状や、対処法なき疾病では、通用するかも。)

こんなことをついつい書いてしまうのは、「酉陽雑俎」を読み通すと、道教医学には科学的思考をかなり含んでいるように感じてしまうからだ。但し、それは科学進歩に繋がる訳ではない。ここが肝要なところ。

逆に、道教と対立している儒教は、間違いなく反科学。儒教は、一見、合理主義に映るが、それは官僚制度では、文章化可能な、明瞭な論理を必要とするということの反映にすぎない。"合理的"に見える法則をとりあえず採用しておけば、社会安定に繋がるというだけの話。(法則を決めたら、それを帝国の隅々までいきわたらせるために全力を注ぐ風土を創りあげたのである。)
このことは、決めたことに対しては、反論許さずということを意味する。従って、都合が悪い知見はすべて潰されることになる。もともとの法則にしても、都合のよいものを引っ張ってきただけであり、創出した訳ではない。つまり、反科学的思考そのもの。

このように考えると、中華帝国で医学の進歩が止まってしまった理由が見えてくる。

唐代より後、儒教勢力が、道士がすでにまとめていた薬草類の経験論を、"合理的"な風合いの解説をつけ、真似と統制の官僚管理の医学にしたからである。進歩のタネは、間違い無く沢山あった筈だが、それを開花させない方向に進むしかなかったのである。

と言っても、呪術に力が入ってしまえば、進歩どころではなくなる。為政者の宗教である儒教と違って、道教は大衆に依拠する宗教だったから、そこから抜け出せなかったのは事実である。
観察に基づく病因モデル論はそれなりに作られていたが、大衆の要求は、理屈ではなく、呪術に絡んだ形での「経験論」なのだから、どうにもならなかったであろう。
(これは、唐代の限界という訳ではなく、今もって続く桎梏と言えよう。
治癒したケースがあるなら、その単純な真似の治療が要求されるのは、当たり前。一般大衆からしてみれば、「科学」のモデル概念などどうでもよいのである。しかし、「科学」を暗記させられる高等教育では、こうした一般大衆体質から脱することはできかねるのが現実。・・・例えば、ある化学成分があり、それを服用すると特定の疾病がほぼ100%治癒するとの「経験論」があったとしても、「科学」的には、それを「薬」とは呼べないのである。)


そして、忘れてならないのは、道教には、一応、観察に基づく"立派な"モデル論はある点。五行のドグマに映らないでもないが、「黄帝内経」第四卷異法方宜論篇第十二を読むと、それは風土的問題ととらえられていることがわかる。その風土モデルに対応する形で療法が記載されているのだ。・・・
 黄帝問曰:
  「醫之治病也,一病而治各不同皆愈何也。」
 伯對曰:
  「地勢使然也。」

   <"東方"的風土>
 【比喩】天地始生
 【気候の特徴】温和
 【産品】魚+塩
 【地勢状況】河海沿岸浜辺域
 【食生活】魚食+塩味嗜好 (安住の結果、この食を最上に)
 【病因】魚肉過多→人体内過熱 塩分過剰→血液活性上昇
 【顕著な様態変化】皮膚:黒色+粗な肌理
 【病態】腫瘍
 【治療方法】
東方之域,天地之所始生也,魚鹽之地,海濱傍水,其民食魚而嗜鹹,皆安其處,美其食,魚者使人熱中,鹽者勝血,故其民皆K色疏理,其病皆為癰瘍,其治宜砭石,
石者,亦從東方來。

   <"西方"的風土>
 【比喩】天地收引
 【気候の特徴】吹きすさぶ風 水土剛強
 【産品】金属/宝石
 【地勢状況】沙漠/礫地
 【住生活】山稜居住 無服飾(毛皮着用)+菰敷
 【食生活】獣脂肥肉食
 【病因】外界への抵抗力強靭
 【顕著な様態変化】肥満
 【病態】体内
 【治療方法】毒薬
西方者,金玉之域,沙石之處,天地之所收引也,其民陵居而多風,水土剛強,其民不衣而褐薦,其民華食而脂肥,故邪不能傷其形體,其病生於内,其治宜毒藥,
故毒藥者,亦從西方來。

   <"北方"的風土>
 【比喩】天地閉藏
 【気候の特徴】寒風、冰冽
 【地勢状況】高地/高原
 【生活全般】楽居於野(仮住=遊牧)
 【食生活】乳食
 【病因】内臓寒気
 【病態】脹満
 【治療方法】艾灸
北方者,天地所閉藏之域也,其地高陵居,風寒冰冽,其民樂野處而乳食,藏寒生滿病,其治宜灸倦,
故灸倦者,亦從北方來。

   <"南方"的風土>
 【比喩】天地長養
 【気候の特徴】霧露凝集
 【地勢状況】低地 水土湿弱
 【食生活】酸味嗜好+醗酵産品
 【病因】湿熱
 【顕著な様態変化】皮膚:赤色+緻密な肌理
 【病態】痙攣
 【治療方法】鍼(針刺)
南方者,天地所長養,陽之所盛處也,其地下,水土弱,霧露之所聚也,其民嗜酸而食,故其民皆緻理而赤色,其病攣痺,其治宜微鍼,
故九鍼者,亦從南方來。

   <"中央"的風土>
 【比喩】万物生衆
 【気候の特徴】多湿
 【地勢状況】平坦
 【産品】物産豊富
 【生活全般】労苦無し
 【食生活】食物雑多
 【病態】痿厥、寒熱
 【治療方法】導引、按
中央者,其地平以濕,天地所以生萬物也衆,其民食雜而不勞,故其病多痿厥寒熱,其治宜導引按
故導引按者,亦從中央出也。

聖人雜合以治,各得其所宜,故治所以異而病皆愈者,得病之情,知治之大體也。

さらに、第十九卷五運行大論六十七第七卷宣明五氣篇二十三、等の記述を加えるとこんな風に解釈することができよう。・・・

五行木行火行土行金行水行…地
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五方東方南方中央西方北方
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五時春時夏時土用秋時冬時
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五邪風邪熱邪湿邪燥邪寒邪…天[熱=暑]
■■■■[熱=暑]
└──────────┐■■■■
五穴目穴耳穴口穴鼻穴陰穴
■■■■■■■■■■■■…呼吸
■■■■■■■■■■■■肺臓■■■
五臓■■■■┌──┬──┘■■■■
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肝臓心臓脾臓■■■■腎臓
■■■■■■■■■■■
身体■■■■■■皮毛
五液涙液汗液涎液鼻汁唾液
_________________
五行/五方/五時

五味酸味苦味甘味辛味鹹味…非食味
└───────┐■■■■■■■
五穴目穴耳穴口穴鼻穴陰穴
■■■■■■■■■…飲食
■■■■■■■■■
_■■■■■■
五腑■■■■┌──┘■■■■■■■…通常六腑
■■■
_■小腸■■■■大腸膀胱

今一歩、詳細性に欠ける点があるものの、風土モデルを人体モデルに繋げており、それなりの論理性が感じられる。ただ、解剖学的に追求していくパトスは生まれなかったようである。死体を弄ることはタブーに近かったからなのであろう。

さて、最後に、道教医学に進歩が有りえるのかという点についての結論だが、「酉陽雑俎」から小生が学んだことを書いておこう。

限界はあるものの、上記のように、それなりの観察が行われていたことがわかる。ただ、そこから一歩も進んでいないのである。
と言うか、当事者はさらなる進歩を図っているつもり。ただただ、詳細化に注力したのだ。結果、煩雑でなにがなにやらに至る訳である。
このため、経験則の新発見があっても、それはあくまでも、たまたま生まれた職人的技巧の範疇に留まってしまう。技術に高めることはできなかったのである。これは科学進歩というより、退歩に近かろう。

ドグマ嫌いだらこそ、優れた観察力を身に着けることができた成式にとっては、これは、まことに残念なことであったろう。ただ、それをそのまま受け入れた訳である。

但し、いつの日にかは、進歩もありえるかも、と考えていた節も。と言うのは、ドグマに基づいた訳のわからぬ話を切り捨てるべきではないとの姿勢を貫いていたからである。つまり、つまらぬ迷信と見なすのも"ドグマ"の可能性が高く、そのような話でもなんらかの真実を反映している可能性があるから、本質に迫るべく、考えてみたらどうなノ、と提言している訳である。
本質を見抜く力があれば、わかってくる時も来ようという感覚だろう。その辺りのセンスは抜群である。

考えてみればわかるが、そのようなセンスがなければ、「無為自然」は、所詮は文芸的遊びで、情緒的言葉に過ぎない。一体、なにが自然なのか明確に言えないからである。その辺りが老子思想の限界でもあろう。

儒教勢力は端からそこらを見抜いており、道教勢力は本質的に反儒教であるにもかかわらず、補完勢力にされてしまったり、蔑まされるしかないのである。
つまり、経験論から出発している道教的医学の進歩は、儒教によって止められてしまったとも言えるのである。

─・─・─ 蔵腑の気 ─・─・─
【1】心気[蔵⇒腑]小腸気⇒顔舌
  心=神蔵…精神活動・思惟
   "血脈を支配する。(血流を良くする。)"
【2】肺気[蔵⇒腑]大腸気⇒体毛・鼻
  肺=呼吸気蔵
   "百脈を集める。"
   "水道(水分)を調達する。"
【3】脾気[蔵⇒腑]胃気⇒唇口・肌
  脾=栄気蔵[飲食物海]=原気[元気]
   "運化(飲食物)を支配する。[統血]"
   "水邪を抑える。"
【4】肝気[蔵⇒腑]胆気⇒爪・眼
  肝=血蔵[血海]…全身の気(感情や意志)
   "血の疎通と排泄を支配する。"
   "精液/月経を調節する。"
【5】腎気[蔵⇒腑]膀胱気⇒骨・耳・髪
  腎=精蔵…納気
   "精を血に変化させる。"
   "体液(水液)を支配する。"

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