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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.16 ■■■

金剛経のご利益話[現世での霊験譚]

功徳のご利益として、死後ではなく、現世で直ちにかえってくることがあるというトーンの話も少なくない。
仏教勢力が、様々な工夫をして、人的な被害を少なくすべく工夫していたと見ることもできよう。[6,10,13,16,20,21譚]
"物知り"段成式は、その辺りは百も承知の助。

[第6譚] 左營伍伯 《金剛經》 拉致回避
韋南康鎮蜀,時有左營伍伯,於西山行營與同火卒學念《金剛經》。性頑,初一日才得題目,其夜堡外拾薪,為蕃騎縛去,行百余裏乃止。天未明,遂之於地,以發系,覆以駝毯寢其上。此人惟念經題,忽見金一放光,止於前。試舉首動身,所縛悉脱,遂潛起逐金走。計行未得十余裏,遲明,不覺已至家。家在府東市,妻兒初疑其鬼,具陳來由。到家五六日,行營將方申其逃。初,韋不信,以逃日與至家日不差,始免之。
韋南康が蜀を治めていた時、左営担当の伍伯が、西山の行営に於いて、同火卒と共に《金剛經》の念じ方を学習した。
ただ、その性格は頑迷そのものであったから、初日は、1日丸々かかって、題目を完了する始末。
その夜のこと。
堡の外に出て、薪を拾っていたのだが、蕃族の騎馬につかまり縛られて連れ去られてしまった。
行くこと100里余りでようやく止まった。天はまだ未明の状態であったから、地面に倒され、頭髪を杙に繋ぎ留められた上で、駱駝の毛の絨毯で覆われた上で寝ることになった。

この人、ただただ、お経のお題目を念じ続けていた。
すると、忽然として、金の延べ金が光を放って出現し、目の前に止まった。
そこで試しに、頭を挙げて身体を動かしてみたのだが、縛られていた箇所がことごとく外れてしまったので、潜に立ち上がり金の延べ金を追走した。
合計で10里余りも行ったか行かないか程度で、ようやくにして夜が明けて来た。そして、自覚もないのに、家に到着したのである。
その家だが、成都府の東市にあり、初めは、妻子に鬼神ではないかと疑われたので、ことの由来と具体的に陳述して聞かせた。
家に到着してから5〜6日経ち、行營の將が逃亡の申告をしたのである。
初め、韋南康は言うことを信じなかったのだが、逃亡の日と、家に到着した日に差が無いので、始めて放免としたのである。

ありそうな話。
ただ、現代日本では、徴兵制度がどのようなものか実感がさっぱり湧かないので、軍隊話を理解するのはえらく骨である。と言うのは、一兵卒になることが、社会的にどう見られているかは色々だからだ。
日本だと、大将を夢見て徴兵される時を待ち焦がれる子供だらけの地域もあった訳だし。米国は志願兵だが、米国民主党の大統領候補が「しっかり学ばないと軍隊に行くしかなくなる。」という発言で、チャンスを棒に振ったことがあるから、口には出さぬもののどう見られているか想像がつく。
中華帝国は宗族第一の儒教が染みついており、そこでの徴兵制とは熾烈なものだった見てよいだろう。おそらく、徴兵に応じない人間がいる"家系"は下手をすれば根絶やしにされかねない訳で。逃亡兵が出たりすれば一族郎党大騒ぎだと思われる。
この話はソレ。
逃亡兵として処刑されるだけでなく、一族もお咎めを喰らう事態が予想されたので、仏教勢力が回避する手を思いついたのであろう。周囲も薄々気付いていただろうが、一族の手回しが的確だったのだと思われる。財産を失うことも考えられるから、必死になって動けばその程度はどうということはない。
中華帝国とは賄賂での減刑はよくあること。それは組織の腐敗を意味している訳ではなく、独裁者が恣意的な裁量でどうにでもなる体制ではそれなくしては物事は上手く進む筈がないというだけのこと。

[第10譚] 陽鎮將王常持 《金剛經》 難破船から生還
元和中,嚴司空綬在江陵,時陽鎮將王,常持《金剛經》。因使歸州勘事,回至咤灘,船破,五人同溺。初入水,若有人授竹一竿,隨波出沒,至下牢鎮著岸不死。視手中物,乃授持《金剛經》也。咤灘至下牢,三百余裏。
元和期[806-820年]のこと。司空の嚴綬が江陵に居た頃。
その時、陽で鎮將だった王は常に《金剛經》を護持していた。
ある時、歸州での、上官の譴責を受けて出仕の差し止め処分を下すための使いを仰せつかった。勤めを果たし、帰路の途中、咤灘に到着したところで、船が難破。5人が一緒に溺れてしまったのである。
が水に落ちた瞬間、誰かが一本の竹竿を授けてくれた気がしたという。
その後は、波に従って水面を出入りしていたのだが、流され続けた果てに下牢鎮の岸に辿り着き、一命をとりとめた。
そこで、手の中にあった物を視てみると、なんと授持していた《金剛經》だったのである。
ちなみに、咤灘から下牢鎮までは、300余里ある。

この手の宗教譚は珍しいものではない。現代では、経典は本なので、よくあるのは、ピストルの弾が本のお蔭でそこで止まったというもの。
唐代の経典は竹管の巻物であるから、このような話になるだけのこと。
ただ、両者は似てはいるが、全く異なる話である。
後者の解釈としては、一説にすぎぬが、信者は危機的状況にあっても一心不乱に心のなかで念ずるので、余計なエネルギーを使わず、身体が本能的に自由に動くため生存可能性を高めるとも。

[第16譚] 王殷常讀 《金剛經》 襲撃回避
蜀左營卒王殷,常讀《金剛經》,不茹葷飲酒。為賞設庫子,前後為人誤累,合死者數四,皆非意得免。至太和四年,郭サ司空鎮蜀,郭性嚴急,小不如意皆死。王殷因呈錦纈,郭嫌其惡弱,令袒背將斃之。郭有番狗,隨郭臥起,非使宅人逢之輒噬,忽吠數聲,立抱王殷背,驅逐不去。郭異之,怒遂解。
蜀の左營の卒である王殷は常に《金剛經》を読誦。葷を茹てて食べることはしないし、飲酒も避けてきた。
賞賜用品保管の任に当たっており、誤って、かかわりあいになることが続いていた。ただ、死者の術数4に合致し、それが意に添わなかったという理屈で、どうやら処断を免れることができていた。
太和四年
[830年]に至り、司空の郭サが蜀を治めることになった。
その郭サだが、少しの気の緩みも許さず、緊迫した姿勢を貫いており、少しでも意に沿わない者は、すべて、殺すという気質。
そんな状況で、王殷は絞り染めを呈上。どころが、郭サはその品は質悪で弱いと見なし、嫌悪感露わに。王殷を脱がせ、背中への鞭打ちを命じたのである。もちろん、斃死させるべく。
当時、郭サは吐蕃犬を飼っており、郭サの起床時から就寝時までつき随っており、家人以外の人間に会うとたちまち咬みつく獰猛な性格の犬だった。
にもかかわらず、この時だけは、その犬は忽然と数回吠えてから、王殷の背中に立って抱きついたのである。駆逐しようにも去ろうとしなかった。
郭サは、これは異なことということで、怒りを解いたのである。

表に出さないが、超犬好き人間はいるもの。どういう理由かはわからぬが、一瞬にして犬もそれを察するらしい。一回もそんなことをしたことが無いというのに、突然、知らない人にじゃれ付いたとの話を時々耳にするからだが。(もちろんこの逆もある。)
ただ、犬によって、好みは相当に違うようだ。と言うか、飼い主が大好きそうなので、代わりにじゃれ付いたとの俗説も。

[第17譚] 百姓趙安常念 《金剛經》 襲撃回避
郭司空離蜀之年,有百姓趙安常念《金剛經》,因行野外,見衣一袱遺墓側。安以無主,遂持還。至家,言於妻子。鄰人即告官趙盜物,捕送縣。賊曹怒其不承認,以大關挾脛,折三段。後令杖脊,杖下輒折。吏意其有他術,問之,唯念《金剛經》。及申郭,郭亦異之,判放。及歸,其妻雲:“某日聞君經函中震裂數聲,懼不敢發。”安乃馳視之,帶斷軸折,紙盡破裂。安今見在。
司空の郭が蜀から離任した年のこと。
百姓の趙安は常に《金剛經》を念じていた。
野外に出て行ったところ、墓の側に、一袱の衣類が遺されているのに気づいた。
趙安は、これは持主無しとみなして、持って還ってきた。家についてから、妻子にそのことを話した。
ところが、その隣人が即刻に、趙安が物を盗んだと、官吏に告発した。このため捕らえられて県に送られてしまった。
賊曹は、趙安がその罪を承認しないので、怒り、大きな閂
[かんぬき]でその脛を挟んだのだが、閂の方が3段に折れてしまった。
その後、脊を杖打ちさせたのだが、杖が下りたところでたちまちにして杖が折れてしまったのである。
官吏は、これはなんらかの術を使っていると見て、問いただした。
すると、ただ、《金剛經》を念じているだけとの返答。
そこで、このことを郭に上申すると、郭も又異なる事と。
そんなことで、放免の判決が下った。
帰ってみると、その妻が言うことには、
「某日のこと、
 あなたの持ち物の經函の中から、
 震動炸裂する音が数回聞こえてきました。
 懼れで函を開けることができませんでした。」と。
趙安、馳せ参じて函を視たのだが、
帯が断絶、軸は折れ、紙は尽く破裂の状態。
その趙安だが、現在も健在とのことである。

行き過ぎた取り締まりを、賄賂で解決するのではなく、仏教徒の知恵で上手く取り計らうことも行われていたのであろう。

[第20譚] 豐州烽子唯念 《金剛經》 襲撃回避
永泰初,豐州烽子暮出,為黨項縛入西蕃易馬。蕃將令穴肩骨,貫以皮索,以馬數百蹄配之。經半,馬息一倍,蕃將賞以羊革數百。因轉近牙帳,贊普子愛其了事,遂令執纛左右,有剩肉余酪與之。又居半年,因與酪肉,悲泣不食。贊普問之,雲:“有老母頻夜夢見。”贊普頗仁,聞之悵然,夜召帳中,語雲:“蕃法嚴,無放還例。我與爾馬有力者兩匹,於某道縱爾歸,無言我也。”烽子得馬極騁,乏死,遂晝潛夜走。數日後,為刺傷足,倒磧中。忽有風吹物過其前,因攬之裹足。有頃,不復痛,試起歩走如故。經信宿,方及豐州界。歸家,母尚存,悲喜曰:“自失爾,我唯念《金剛經》,寢食不廢,以祈見爾,今果其誓。”因取經拜之。縫斷,亡數幅,不知其由。子因道磧中傷足事,母令解足視之,所裹瘡物乃數幅經也,其瘡亦愈。
永泰初[765年]のこと。
豐州
[@南モンゴル古都フフホト]の烽子[約20Km毎に設置された烽火担当]が暮時に外出。黨項[西夏語系民族]に捕縛されてしまい、西蕃の地に拉致されてしまった。その地で、交易品とされ、馬扱いで手渡されてしまった。
蕃將は、肩の骨に穴を開けさせ、そこに皮索を通した上で、数百頭の馬を割り当てた。
半年を経ると、飼い馬の数が倍になった。そこで、蕃將は、数百の羊の革を褒美として与えた。さらに、牙帳
[辺境少数民族群の首都]の近くに移転させたのである。
吐蕃の宰相
[呼称:"贊普子"]は、その仕事の手際の価値を認め、左右一対の、儀仗用の先端に毛房飾りがついた竿旗を執ることを許した。さらに、剰余の肉や酪があれば、それを与えた。
それから半年が経ち、酪肉を与えたのであるが、悲し気に泣いて食べないのである。
そこで、吐蕃の宰相は問いただした。
応えて言うことには、
「私には、老母がおりまして、
 夜になりますと、頗るほど、夢に出て来るのです。」と。
吐蕃の宰相も、頗るほと、他人に対する親愛の情をもった人物だったので、それを聞いて、(同情し)悲しんで嘆いたのである。
そして、夜のこと。帳中に召して言った。
「蕃の法は厳格。
 そのため、今迄、放還させた例は一つも無い。
 そこで、
 吾輩は、力がある馬2頭を授けようと思う。
 某は、自分の思う道を行き、家に帰るがよかろう。
 ただ、吾輩のこの扱いについては、他言なきよう。」と。
烽子は馬を得たので、これ以上は無理という程の速さで馬を走らせた。結局、馬は両方とも死んでしまった。
そこで、昼は潜み、夜は走って進んだ。
数日後、刺で足を傷めてしまい、河原の水が枯れて砂や石だらけとなっている地の中で倒れてしまった。すると、忽然として、風が吹いて来て、なんらかの物が飛んできた。カサコソと前を過ぎていったので、手中に収め、それで足を包んだ。
そのお蔭なのか、少々しか時間は経っていなかったものの、再び痛むことはなくなった。試しに起きてみると、歩けた。そして、もとからのように、走れるようになったのである。
同じ所に二晩泊まったが、ようやくにして、豐州の境界に到着。そして、家に帰着。母は健在だった。
悲しみ半分、喜び半分で言うには、
「失踪してからというもの、
 私はただただ《金剛經》を念じておった。
 寢食の時も中断せずに、会えるようにと祈っておった。
 よって、今、その誓いが果たせたのだ。」
そして、お経を取り出し、それを拝した。
そのお経の、糸でつづり合わさっていた部分は断絶しており、数幅が失われていたが、その理由はわからなかった。
そこで、息子は母に、道中、磧中で足に傷を負ったことを話すと、母はその足を包んであるものを解いてどうなっているか視た。その瘡を包んでいた物は、お経の数幅だったのである。そして、その瘡は治癒していた。

大乗仏教は、為政者を脅かすことがない、インターナショナルな宗教だったので、西域では普遍的な地位を占めていたと見てよいだろう。諸国の高官も仏教徒は少なくなく、ことのほか仏教徒に篤かったのは間違いなかろう。
もともと、仏教徒は儒教的な宗族繁栄意識を欠くから、人種や身分的な偏見も薄い。逃亡者を匿い手助けする人も多かったと見てよかろう。それは、交易拠点のネットワーク的存在だった筈だが、そのお世話になったからといって、その存在を表だって語る馬鹿者はいまい。それだけのこと。
様々な人々と、本音で語り合うことが好きだった成式としては、これは是非とも収録しておきたかった話に違いない。利他主義の塊でもある大乗仏教は、中華帝国ではこの先滅びることになろうとの予感を抱いていたようだから。

[第21譚] 王孝廉惟念 《金剛經》 襲撃回避
大歴中,太原馬賊誣一王孝廉同情,拷掠旬日,苦極強首,吏疑其冤,未即具獄。其人惟念《金剛經》,其聲哀切,晝夜不息。忽一日,有竹兩節墜獄中,轉至於前。他囚爭取之,獄卒意藏刃,破視,有字兩行雲:“法尚應舍,何況非法。”書跡甚工。賊首悲悔,具承以匿嫌誣之。
大歴期[766-779年]のこと。
太原で、馬の賊が、郷試に合格した進士受験者[孝廉]の王は、一味と情通していると誣告した。
そのため、10日間鞭打ち拷問にあった。苦痛は極限状態だったので、無理でも罪を白状するしかなかった。
審理を進めていた官吏は、これは冤罪ではないかと疑ったので、獄訟資料は未完のママ。
ただ、収監されたので、そこで唯々《金剛經》を念じ続けることになり、その声は哀切に満ち、昼夜絶え間なく続いた。
ところが、ある日、忽然と、2節の竹が牢屋の中に墜落してきて、転がって目の前にまで到達。他の囚人が争ってそれを取った。獄卒はそのなかに刃が隠されていると見て、破壊して中を視た。中を覗くと、2行にわたって文字が記載されており、こんなことが書いてあった。
「法など、捨てるしかない。
 ましてや、非法だし。」
その書跡は甚だ巧みであり、賊の首領は悲しみで悔やみがつのった。そこで、嫌悪感に隠れ、つい誣告してしまったと、奉ずるに至った。

仏教勢力が信用されていた頃のことか。(もっとも、賊によって、斬首された禅僧もいたが。)

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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