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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.28 ■■■

[学び]「古」v.s.「今」

「酉陽雑俎」に収録されていないが、「毀」をタイトルとした段成式の文章があるので、眺めておこう。・・・
古之非人也,張口沫舌,指數於衆人,人得而防之。
今之大人也,有張其所違,戚而憂之,人不得而防也。
豈雕刻機杼有淫巧乎?
言非有乎?


毀=臼+土+殳(古代の棍棒的兵器=几+又)は、設置されている、位階を示す臼を打ち壊すという意味の文字なのであろう。
仏教徒の成式的には、四字熟語用法としては"廃仏毀釈"と戒として知られる"自讃毀他"になるか。
他人を非難することを、毀辱と呼ぶが、儒教的には、それは宗族が謗り辱められたことを意味していた筈である。孫々に渡ってその恨みを果たすことが義務となる。それだけの重大事ということ。

ただ、この文章、一目でわかるように、「古」と「今」を対比した構成になっている。
儒家論法の一大特徴を真似ているのであろう。

儒教の場合、先ずは、美化した歴史解釈を開陳し、過去と大きく違ってしまった現在の状況を批判するという論述にするのが普通。

そこには過去の事象を客観的に眺める"解釈者"としての自覚は皆無。と言うより、自らの価値観に合わせた事象しか、過去には存在しないと言い張る訳である。
従って、過去⇒現在⇒未来の流れを分割して論理的に思惟する能力は不要なのである。
常に、時の流れはなし崩し的につながるから、過去を踏まえた上で、現状把握に踏み込み、未来を見定めるという、現代では当たり前の思考とは水と油。
しかし、独裁者と官僚による統治を永続させようと考えるなら、これほどピッタリ嵌る思想はなかろう。

「論語」憲問第十四
子曰:
「古之學者為己,
 今之學者為人。」


「孟子」告子上
古之人,修其天爵而人爵從之。
今之人,修其天爵以要人爵。
既得人爵而棄其天爵,則惑之甚者也,終亦必亡而已矣。


当たり前のことだが、時代によって価値観は違うのである。
呂不韋:「呂氏春秋」卷十 異寶@B.C.239
古之人非無寶也,其所寶者異也。

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