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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.7.21 ■■■

[ここで一服] 非禅的"悟り"

「酉陽雑俎」の何故が素晴らしいかといえば、世界観あるいは宗教観について語ろうとしているのにもかかわらず、自分の意見や解釈を直接的には一切触れない点。種々雑多な話を紹介するだけに留め、これをどう思う?と提起しているだけ。
仏典の知識では、仏僧から一目置かれるような人物なのだから、自分の意見を多少でも表明してよさそうに思うが、それを避けたのである。
材料を提供するから、読者はご自分の頭で考えてみよということ。考えてみるに、この姿勢は、在家大乗仏教徒としての矜持かも。いわば、段成式方式のインテリ向け"公案"。

思うに、当時の学僧達は経典に記述されている用語説明に終始しがち。段成式は、その手の話に飽き飽きしていたのでは。インターナショナルな交流をしていたから、そんな衒学に付き合うことの馬鹿々々しさに早くから気付いていたと思われる。そのような方向に進む宗教は何れ中華社会から捨てられるとの直観もあったに違いない。

と言うのは、様々な説はあるものの、「あBCDE」の5種に分かれるとか、「B=β=美」といった解釈だらけで、聞かされても理解が深まるどころではないから。これが正解だから暗記せよというものだらけ。(現代日本では非学僧の解説者が多そうだが、反科学風土濃厚な社会だから、この状況はさらに酷くなっていると拝察しているが、どんなものだろうか。)インテリとしては、そんな状況に辟易していた可能性が高かろう。
しかも、教団内部での主導権争いは熾烈を極めていたようだし、信仰とは無縁な出家者も少なくなかったから、その手の胡散臭い僧と付き合うのは御免被りたいというところだったろう。

そんな段成式だが、極めて優れた生物観察眼を持っていたから、仏教についても、一家言あった筈。
その辺りについては、サロンで思う存分語り合ったろうし、尊崇する僧も存在したと思われるが、それを公言するような社会音痴ではない。

だが、「酉陽雑俎」を通読すれば、大乗仏教色を感じると思う。

例えば、動植物譚や鷹狩関連話にしても、外見的には自然科学的な対象観察記だが、その目線は大乗仏教的と言えないでもない。動植物を単なる"対象物"ではなく、"朋友"として扱っていそうだから。その観点で、動植物で気になった点を指摘した話と見ることもできよう。

なかでも不思議なのが鷹狩話。狩猟そのものにはさっぱり興味はなさそうだが、友としての飼育鷹の一生についてはこれでもかの蘊蓄を傾けているのである。
それは、ソグド人の風習を書いている時の感覚となんらかわらない。
段成式は、反儒教と思われるが、この辺りがその原点とも言えそう。段成式の"倫理"とはこの"朋友感"であり、宗族繁栄のための"強制ルール"とは肌が合わないのである。(倫[=人+侖(=𠆢+一+冊:木簡)]はもともとヒトの輪という意味。)当然ながら、後者は必要悪的なものとなる。中華帝国型の独裁者-官僚統治維持には役に立つものの、個人の精神領域にズカズカと踏み込んでくるから、インテリとしては耐えがたいのである。

しかし、だからと言って、"なにはともあれ自己主張"型の自由精神とは180度違う。それどころか、逆と言ってもよかろう。
"自我"の拘りを捨てないと、世界は見えてこないとの仏教的見方に100%共感を覚えていたからだ。仏教の《五蘊(=塊)》を、実感からして、間違いあるまいと考えたということ。
現代で、その五蘊を、例で表現するとこうなろう。・・・
・商店街を散歩していた。
・突然、香が鼻を刺激した。
・美味しいチョコレートが作られているイメージが浮かんだ。
・一瞬にして、チョコレートを食べたくなった。
・チョコレートショップがある筈。


5段階を順に踏んでいくことになるが、それぞれは単なる"現象"とみなすことになる。
 「色」蘊:ヒトの肉体〜物質が相互に作用し合って"存在"している現象
 「受」蘊:感受(感性的相互作用)作用が発生する現象
 「想」蘊:想像(表象化)作用が発生する現象
 「行」蘊:意志(意思決定)作用が発生する現象
 「識」蘊:認識(主客状況判断)作用が発生する現象
小生は順番に違和感を覚えるが、認識プロセスを考えると、こう考えるべきと言えるかも。

この辺りは誰でも知る5感とつながる訳だが、この理論の本質を抉る力には驚嘆させられる。官能的認識と、意識、なかでも潜在意識を一括して論じるからだ。5感と同列に"意識"をあげるのは正論だが、凡人が気付くような当たり前の理屈ではない。・・・
無眼耳鼻舌身意。 無色声香味触法。 無眼界乃至無意識界。 [「般若心経」]

普通、大乗仏教唯識説と呼ばれるらしいが、以下のような構造になっているようだ。
《前識5領域》
…………色形感=視覚
…………音聲感=聴覚
…………香臭感=嗅覚
…………味感=味覚
…………接觸感(刺激/圧力+硬軟)=触覚
         〃(外気流+外気温)=広義の触覚
《自覚識領域》
…………心=法
《無意識2領域》
末那………潜在意識=煩悩(我への執着)感覚
阿頼耶……根本意識=本能的感覚

錯覚という現象や、コミュニケーションが難しい人の状況からわかることだが、自分の官能器官によって、ママで対象を観察している気になっているが、それは幻想でしかない。頭に入っている概念と、"我"に従って、入ってくる情報を勝手に取捨選択して編集しているのだ。それができないと、入ってくる情報が多すぎて意思疎通もできなくなってしまう。
"悟りを開く"とは、こうした作業を心のなかで行っている事実を実感することから始まるのであろう。ただ、このような理屈に同意することは簡単だが、自分がどう情報を編集しているのか、つまり"自我"を知ることは凡人にはできかねるのが現実。
しかし、このような深いレベルでなければ、自分の思い込みで世界を見ていることに気付くことはそれほど難しい訳ではない。
「酉陽雑俎」は、そのような"気付き"を与える書として作られていると見てよいだろう。精神的自由を求める人達への、段成式からの贈呈書と言えよう。

つまり、なんだ迷信ばかり集めた書籍と感じたなら、読まない方がよいのである。


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