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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.7.22 ■■■

[ここで一服] 仏教より道教

段成式は仏教徒であるが、「酉陽雑俎」で、道教や道士を積極的に取り上げている点には十分注意を払うべきだろう。
腐敗した仏僧を取り上げているが、自称道士をとりあげたれば、それ以上に様々な実例があがってもおかしくないが、その辺りにはえらく関心が薄い。このことは、道教は仏教に似せた土着的信仰の寄せ集めであるから、そのような現象が発生していて当たり前と考えていた可能性が高い。世の中、異なる文化の地はいくらでもあり、得体の知れぬ信仰をあげていたらキリが無いと見ていたのだと思う。

それなら、無視してもよさそうに思うが、実際はその逆。

山に入り仙人修行に勤しんでいるにもかかわらず、利他主義的でもある道士もおり、そのような人々には敬意を払っていたし、その生活経験からくる教訓にも耳を傾けていたからだと思う。

実際、道教には、仏教より深みがある領域が少なくないからである。

仏教の「識」の考え方にしても、本質を指摘する素晴らしいモノの見方ではあるものの、詳細が詰められていないため、聞かされる方は"それはそうかも知れぬが、…"となって、その後がさっぱり続かないのである。このことは、仏教は凡人の考えることとは次元が違うことを議論していると見なさざるを得まい。
例えば、5感といっても、対象を"自分の身体"としたら、どう考えるのかについて、自明な答は用意されてはいない。凡人ならすぐに、"身識"に以下に示す体内感覚も入るのか気になってくるからだ。ついでに言えば、酒の酩酊感は"識"とどうかかわるのかも。・・・
【身体内感覚=非肌(表皮)識】
脈鼓動……血流循環感
(知識から)………(リンパ循環)
口腔………顎歯感(味ではなく食感)
骨筋………疲労充実感
食道………食物流入感
胃腹………空満感
…………膨満停滞感
肛門膀胱…排泄感
【身体外感覚=肌(表皮)識】《前識5領域》
…………色形感=視覚
…………音聲感=聴覚
…………香臭感=嗅覚
…………味感=味覚
…………接觸感(刺激/圧力+硬軟)=触覚
         〃(外気流+外気温)=広義の触覚
この手の身体内感覚を幻想とするなら、カルト的宗教と言わざるを得ない訳で、そうでないとすれば生活感なき宗教と言わざるを得ない。

凡人でも、赤ん坊の"識"の進化を知っている。・・・まだ目が明かない頃でも乳房を探り当てる能力があるし、目が使えるようになっても自分の身体か否かの判別には時間がかかり、なんでもモノにしゃぶりつく時代が存在する。しかし、そうこうするうち、飛躍が始まり、眼力でモノを認識するようになる。動物は、多分、皆、そんな風にして成長するのだろう。(概念形成能力は赤ん坊の時にすでに持っていることになる。そうなると、育児の根幹は、身振と表情という非言語表現による指導にあると言えるのかも。あるいは、構造化しないと【記憶】できないというだけのことか。浅学故にその辺りがどうなっているのかは知らないが。)

ただ、仏教は、釈尊の説教の時代から、禅定の修行方法には気を配っていたから、本来的には身体内感覚については詳しい筈。代謝活動等(呼吸, 体温, 飲食, 糞尿, 汗垢, 運動)
と思惟活動の関係をどう考えるべきか、詳しく検討しているに違いないのである。ところが、そこらについて積極的に語ろうとしないようである。
一方、道教は、ここらの"意識"を土着経験主義的に徹底追及している印象を与える。それこそ、採取生活的な仙人修行を行うようだから、細かな観察結果が得られていておかしくない。
従って、例えば、いかに健康を保ってきたかという経験論では圧倒的に優れている可能性がある。但し、創造的な概念形成の力を欠くから、ドグマで整理されたら経験論の優位性は台無しになるので要注意だが。


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