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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.13 ■■■

酉陽雑俎的に「般若心経」を読む

禅宗的仏教の話になってしまったので「無門関」に触れてしまったが、そうなると、"色即是空 空即是色"で遍く知られる「般若心経」にも手を伸ばしておかねばなるまい。

「般若心経」は、法華経のみの宗派を除けば、ほとんどの仏教宗派で日常的に読誦されていると言われている。そういうこともあってか、非信仰者を任じる人デモ読む経典と化している。結果、本屋には様々なタイプの書籍が並ぶことになる。ただ、読む理由が余りに多種多様なので、バラエティ化が凄まじく、どの本を選ぶべきかで悩む人は少なくなかろう。
但し、正確に言えば、それは体裁やムードの問題ではない。パラリとめくって立ち読みするとたちどころにわかるが、違う見解で書かれているように感じるからだ。大異小同なのである。

つまり、「般若心経」は、素人にとっては、実に厄介極まる経典なのである。
それを踏まえて、考えてみたい。

先ずは、原典。
遣唐使入手サンスクリット文字"貝葉梵字心経"@東博が現存しているが、例外的。中国語訳の、漢文のお経と見るべきだろう。(古写経例:光明皇后発願写経"隅寺心経"@東博, 嵯峨天皇宸筆写経"般若心経"@大覚寺)
その翻訳書だが、古いものとしては、3世紀頃の支謙:「般若波羅蜜呪経」があると伝わるが、経典は失われており、鳩摩羅什:「摩訶般若波羅蜜大明呪経」が最古らしい。ただ、理由は知らぬが、唐三藏法師玄奘譯:「摩訶般若波羅蜜多心經」が選ばれるようだ。(文末に空海の解説書記載の4経典の差違を示しておいた。)

この漢文訳だが、短いとはいえ、簡潔であるとは言い難い。
300字に達しない文章なのにもかかわらず、同じ文字が多用されているからである。・・・般若波羅蜜多(題以外に6回)、無(21回)、不(9回)、空(7回)、色(6回)。当然ながら、解釈は長くならざるを得ない。

さて、その解釈だが、ウエブリソーシスでは、ラジオ放送での講話の影響が大きかった時代に出版された解説書がそれなりの人気を保っているらしい。"正しき人間観"的視点が濃厚な話に仕上がっているので満足する人が多いと言われているようだが、前述したように、選ぶのが難しいからここらが色が薄そうなので、無難ということで読まれているのではなかろうか。(高神覚昇[真言宗学者]:「般若心経講義」初版1952年@青空文庫[改訂版])
ただ、「酉陽雑俎」的に読むなら、これはザッと目を通すだけに留め、どんな経典かを知っておけば十分である。

読むべきは、盤珪永琢[1622-1693年]:「般若心経鈔」。
  → (pdf)@読書人と研究者のための浪漫古書店 資料の部屋
当時の日本人の普段遣いの書き言葉で著されているからだ。お経の内容などわかる必要がなく、外国語の音を唱えればそれで結構という姿勢からの脱皮が図られということ。それだけでも画期的。
(盤珪禅師は、今に伝わらぬものの、特段の姿勢で臨む要無しという"不生禅"を唱え、宗派を超えて大人気を博したと言われている。)
ただ、現代語ではないし、経典の文章と比較するとえらく長いので、斜め読みは無理。そのお陰で素人はのんびり読むしかないから、"成程"と感じることも多くなる。娑婆のゴタゴタした世界を批判するものの、だからこそ、そんな世界に愛着を感じる類の人間には向いている解説書である。
どういう調子か紹介するのは難しいが、末尾の解説だけで、なんとなくわかるのではないか。・・・
 故説 般若波羅蜜多咒 即説呪曰
 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
 菩提薩婆訶 般若波羅蜜多心経"

是れを判にゑると云ふことにてもなく、人に見せると云ふことにてもなく、只戯事のやうなやこと、見てのち丙丁童につたえ給はるべし。
要するに、この経典の文章は、戯事でしかないから、他人にわざわざ見せる必要など更々ないゼ、とご注意下さっているのである。ハッハッハ。
著者の盤珪永琢/大法正眼国師については、浅学な小生は、ほとんと知識ゼロ。(手にとったことさえないが、岩波文庫に鈴木大拙編:「盤珪禅師語録」がある。)
ただ、港区に住んでいるので、名前だけは耳にしているが。(南麻布のフランス大使館裏奥にあたる、土塀が目立つひっそりとしたお寺、慈眼山光林寺を開いた臨済宗の僧。…米国公使館/善福寺への帰途中、攘夷派テロで絶命した、マルチリンガル通訳のヒュースケンのお墓があることで知られるお寺。国際人教育に熱心な港区の名所である。言うまでもなく、外人墓地は社会的に忌み嫌われており、今ある青山墓地一画での造営さえ難事業だったのである。ともあれ、このお寺だけが、"仮"と称することで、墓地を提供できたのである。ちなみに、米国船に救助され、長期海外生活の後に、英国公使館勤めとして帰国し斬殺された通訳のお墓も提供している。尚、本堂は1789年造営。)

この解説書を眺めた後、白隠:「般若心経毒語註[毒語心経 or 毒語注心経]」に目を通せば、必然的に"「酉陽雑俎」的に読む"ことになろう。
こちらも、ウエブリソーシスをお勧めしておこう。 [→]
60歳から早朝座禅会に週1参加し始めたというknarikiyoさんが、"たいへん興味をそそられ"たということで、現代語訳を公開されている。般若心経一途に3年間読書された成果だそうだ。(文献5冊)

と言うことで、前置きはここまで。

上記の"鈔"と"註"の勝手なガイストと言うのもなんだが、盤珪禅師と白隠禅師の文章を大胆に削除改竄したものを解釈としてお目にかけよう。・・・
__________
唐三藏法師玄奘譯:「摩訶般若波羅蜜多心經」
   …なかには"仏説"が付いている場合もあるようだ。
【盤珪から】
これは、釈迦、達磨の作ではない。天竺で生まれた言動の翻訳。
 摩訶=大…良き名にしたかったのである。
 般若=智慧…この定義を細分化してはならぬ。
   白黒の分別など自然体でできるもの。
 波羅蜜=到彼岸…迷いから脱却するという意味。
   迷いの大海を渡るという比喩。
 經=自心…草木国土そのもの。
   表現のしようがないから"心"にしただけ。

【白隠から】
矢鱈にギャァギャァと五月蠅いお経だ。
しかし、下らん議論を止めさせたのだから凄い。
四海五胡の僧という僧を虜にしたしまったのである。
そういうことだから、
蓮の線の孔の中に入って、
鷹狩りをして
大いに遊ぼうゼ。
般若とは唐の言葉では智慧。
「衆生本来仏」という意味でしかない。
従って、
"般若"をもて遊ぶのは、子供の泥団子ごっごと同じ。
つまり、こういうことに注意すべしということ。・・・
夜爪を切ってはアカン。
 どっかに飛んたら見つからないゾ。
尺取虫に計測させるならまだしも、
 蝸牛に石の田の耕作などさせるナ。
馬鹿げた思い込みをしていることに、いい加減気付けヨ。
そうそう、このお経、
簡単にわかるものではないから
ゴチャゴチャ議論ばかりしないこと。
長時間修行をしても
得られるのは苦辛だけかも知れないのだ。
壺中の蛙がいくら跳んでも、
外に出られないようなもの。
そもそも、般若心経は第一回結集で
 編纂されたものではないゾ。
 釈尊のお言葉ではないのである。
そんなものにグダグダ拘るナ。

__________
観自在菩薩
【盤珪から】
草木国土を観察し、心に自在に映すことができるということ。
自らのことだが、他に言いようがなかろう。

【白隠から】
菩薩の話になっているが、
一人一人が煩悩を棄て去れば、
生身の観音になれるという意味。

__________
行深般若波羅蜜多時
【盤珪から】
日常行為が行。
山と川、人と畜生、浄と汚、の世界だが、
すべては自分の眼で生み出したもの。
これを理解できれば、嫌いも好きもなくなる。
何時もその状態なら、般若菩薩。

【白隠から】
人は、
夜の睡眠、昼の活動、放尿や排便をするもの。
これこそが"行"。
雲は行き、水は流れ、葉は落ち、花は飛ぶもの。
こんなことに疑問を抱く輩は地獄へ落ちろ。
あるがママの態で行け。
そして、捏ねくり回さす、あるがママを見よ。
もちろん、時間軸など気にする必要なし。
目の前の時間だけでよい。
ともあれ、神話にあるように、
"渾沌"に穴を開けたり、服を着せては駄目である。

__________
照見五蘊皆空
【盤珪から】
元素に分解して"空"という解説を見かけるが、
姿にとらわれている人に理解させるための方便。
ママで見れば、"空"そのもの。
"蘊"とは、そこでの縁起を意味し、
実体がある訳ではない。

【白隠から】
世の中、屁理屈だらけ。
"空"という言葉にしてから、
亀が産卵後に尾で足跡を消しても、
見れば跡が分かるようなもので、
こだわりがいつまでも残っておる。
ここでの浅智慧など、それこそ、泡沫の如し。

__________
度一切苦厄
【盤珪から】
夢を見ている時に、夢だと感じる人はいまい。
覚めると夢とわかるもの。
悩んでいる"苦"もそんなもの。
すべて見据えることができれば、"空"だとわかろう。

【白隠から】
そもそも、苦厄とは、妄想の産物。
それこそ、盃に映った影を蛇と思ったり、
夜に外から戸を開けようとする人がいると、
 鬼が来たとみなすようなもの。
分かってしまえば、大笑いである。

__________
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 復如是
【盤珪から】
"空"なら父母もなにも無かろうと考える人もでてくる。
好き勝手なものの見方。
当たり前だが、父母は父母なのである。

【白隠から】
智慧第一人者とされた舎利佛だが、
聡明な母親の縁でそう見なされているだけ。
実際、維摩居士の部屋で、
女にされてしまい、自分の力では元に戻れず、
七転八倒したではないか。
悟っていないと見透かされた訳である。
「色」だ「空」だとアアだコウだと言い、
いくら探したところで
わからない者に見つかる訳がなかろう。
経文は色々あるが、ほぼ、余計な理屈。
ありのママの日常がこそ「空」の生き様だからだ。

__________
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
【盤珪から】
一切合切取り除けば、皆、"空"。
生じたとか、滅したとか、
垢まみれだとか、清浄だからとか、
増えたり、減ったり、
そのようなこだわりからの脱却が肝要。

【白隠から】
さあ、ここからが本題。
この舎利佛だが、
亀の毛製の筆や、兎の製の杖を言い出しておるゾ。
諸々の法とか言っても、そんなもの「無」。
何も無いというのに、そこに空相を求めてどうするつもりだ。
衆生の世界にしても、汚染されている訳でもなかろう。
しかも、土中が"浄"との理由もない。
邯鄲の夢や南柯の夢を振りまくなと言わざるを得まい。
その手の夢に、とらわれるナ。

__________
是故空中 無色無受想行識
【盤珪から】
何故に"空"と言うかと言えば、
"色"、"受想行識"を払拭するからだ。

【白隠から】
"無"だ、"空"だ、と修行を続けていると、
 狐の巣穴や、死者の墓穴に落ち込むゾ。
深い穴の底で虚無感を味わってどうする。
お勧めは、普段の生活。
 壁には達磨大師の絵。
 花瓶に挿した梅からは芳香。
 寒いものの、火鉢の火が暖かさを醸しだす。
 そこには、もらいものの自然薯の苞。
 紙袋には養老糖。
これこそ"空中"。

__________
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界乃至無意識界
【盤珪から】
"空"と"無"は同じこと。
無眼界、無意識界が有るとか無いではなく、
払拭するのである。
音が聞こえてくる稲光を考えるとよい。
それは、"空中"にあるようで無い。

【白隠から】
"眼耳鼻舌身意"を否定するなど、どういうつもりだ。
我にはあるゾ。
認識できるからこそ、様々な対象を感じることができる。
認識できなければ、すべてを失うことになる。

__________
無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡
【盤珪から】
"無明"とは、知らなかった心が明らかになるという意味。
そこで、"空"がわかれば、"無"の"無明"になる。
つまり、生死や老病も無い境地に至るのである。
しかし、間違って解釈してはならぬ。
病人もいれば、病気に罹らない人もいる。
あるがママ。それだけのこと。

【白隠から】
"愚鈍な思い"から"苦悩なき老死"まで、
どうとらえるか、間違ってはならぬ。
素晴らしい紫色の絹織物の裏には真珠との教えは
綺麗ごとと心得よ。
凡人の破れた布の裏に真珠があればこそ、
誰でもがこれこそ本当の宝とわかる。
しかし、水も牛が呑めばミルクになるが、
同じ水を飲んでも、蛇だと毒になる。
雑念を消せば、無明も老死も消滅。

__________
無苦集滅道 無智亦無得
【盤珪から】
一切を"苦"と見なし、
様々に分別して集めて迷うのだから、
それを滅することで
道に入り悟るというのは単なる理屈。
なかには、座禅や読経も要らぬという輩もいるが
欲や愛憎から離れることもできぬくわせもの。
"空"の行とは、我儘なことをせず、
実践にこだわること。

【白隠から】
釈尊の教えは、
外見ではわからないが、
海水のように塩が入っている。
そこに気付かねばならぬ。
釈尊の弟子集めにしてもも、それが目的ではなく、
大乗の教えを抱えていたからこそのもの。
経文を追ったところで、
間違って解釈したりすることが多く、
棺桶の中で読んでいるようなもの。

__________
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
【盤珪から】
なんのことはない。あるがママ。
そうすれば、真の菩薩。
あるいは、般若波羅蜜多に依ると言うのである。

【白隠から】
"無所得"という言葉がアカン。
盗人が、品物かかえて、持ってませんでもなかろうて。
妄念そのものを捨てよ。
"般若波羅蜜多"に頼るなど、蛇足そのもの。

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心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
【盤珪から】
心に、引っかかるものがなくなれば、
恐怖がある筈もなかろう。
仏とか衆生と言うのも迷い。
そんな夢から覚めよ。
それを、究極の涅槃と呼ぶ。

【白隠から】
神通力や妙用を特別視する必要はない。
つまらぬ拘りを一切捨て去れば、
 迷いがなくなるというだけの話。
"わきまえて”という
 儒者的な社会規範の無意味さに気付けばよいのである。
そもそも、日常生活を一心に追求しないから
 そういうことになるのである。

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三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
【盤珪から】
つまるところ、自ら持つ仏性に気付けば涅槃。
三世の諸仏もこうして達したのだ。
他人の家に居ると勘違いしたり、
自分の家に入ろうとするのではなく、
自分の家に居ることに気付けばよいのである。

【白隠から】
過去〜現在〜未来の諸仏は、
 もともと智慧で生きておられる方々。
にもかかわらず、悟るとは、どういうつもりだ。
虚空に向けて釘を打とうとするような話ではないか。
凡人だからこそ、悟りに導かれるのである。

__________
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
【盤珪から】
般若波羅蜜多は自らの心だが、大神通力がある呪文である。
遍く照らし出す、比類すべきものなき最高の呪文。

【白隠から】
大神咒を尊崇すべし。
無になって、呪を唱えよ。
だが、呪には、並も特上もないゾ。

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能除一切苦 真実不虚
【盤珪から】
自らの心の、本当の、ありのママを
褒めたたえているのだ。

【白隠から】
説明がくど過ぎる。
くり返しは、逆効果しか生まないこと位わかりそうなもの。

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故説 般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶 般若波羅蜜多心経

【盤珪から】
ここの文言は戯事。(仏様の)御燈明に火を灯す役割の童に、この言葉を伝えてもらったらよかろう。
【白隠から】
村々は雨にけむり、今日も暮れようとしており、
秋の空は広々。
そんななかで、家々では、普段の生活が続けられている。
般若の功徳を称賛し、あまねく真如法界に回向し
諸々の迷いを除去し、人々を利益し、
それが休むことなきよう。


小生は、「酉陽雑俎」を、在家仏教徒向けに、"あるがママの世界"を見るために書き下ろされた書籍と見なしている。従って、冗談的に弄った箇所はあるものの、創作話というか、嘘は一つも収録されていない。つまり、読者が怪奇譚と感じたなら、成式も同じように感じたと考えるべきであり、そんな馬鹿げた見方をする人々がいるのが我々の住む世界というだけのこと。但し、そこには、そう感じる人達の心情への深い理解があることを忘れるべきでない。それと同時に、"そう感じているお前は馬鹿げた見方をしていないのかネ?"という問いかけが隠されているのである。

しかし、この書が素晴らしいのは、そこでは無い。

自らの観察眼から見た世界や、個人的な歴史観を間接的ではあるが披瀝している点にある。注意した表現になっているが、社会の腐敗への憤りを感じさせる記述もちりばめられている。頭のなかだけの修行たる、現状逃避的な"あるがママの心"の追求を嫌っているのは明らか。

そもそも、成式は、仏僧や道士以上に経典に詳しいのだ。
このことは、経典に関して、自分なりの解釈ができあがっていたと考えて間違いあるまい。ただ、在家であるから表にしないだけ。その結果、「酉陽雑俎」が、無意識的に宗教の"文化"化を狙って書き上げた書になってしまったのである。
それは、上記の「般若心経鈔」と「般若心経毒語註」でも言えそう。
特に、後者は、禅文化=日本文化という状況をつくりだした切欠では。白隠は極めて厳しい僧だったようだが、在家中心の布教活動の思想的基盤が整えられたから、以後、文化活動と混然一体化したと見ることもできよう。

これだと、少々、言い過ぎか。

白隠"禅師"の書画でご説明しておこう。
誰が見ても、白隠書画は、茶人が好みそうな、洒脱とか閑静な"禅的"趣味とはえらくかけ離れている。枯淡とか深遠とはおよそ無縁であり、どちらかといえば野暮。しかし、だからこそ、お気楽観賞モードを許さないように仕上がっているとも言える。見ている側は、禅師から、"命を張れ"と目の前で言われている感覚に襲われかねないからだ。えらく煩わしいのである。
だが、間違えてはいけないのは、それは儒教のような御大層教訓モードとは正反対である点。実際、諧謔か冗談半分としか思えない作品も少なくない。倫理道徳の類をママで伝えても、そのヒトが変わる筈もなかろうという場合は、"お前、いい加減にしておけよ!"と書画で伝えたのは明らか。
こうした状況を勘案すれば、白隠自身が、宗教の文化化を図る訳がないのである。単に、工夫しながら、世俗層に仏教を大胆に広げただけに過ぎない。この場合、在家に対して、真摯に自分と向かい合って生きヨと布教しただけのこと。ところが、それが、結果的に革命的変化を生み出したのである。
組織による個人の内面支配・束縛が進んでいた社会だから、それは、"精神的自由"を第一義に置けという思想そのものだったからだ。段成式も、そこらはウリと言ってよかろう。
白隠後、"精神的自由"の大切さ感を共有する層ができあがり、"精神的自由"の発露たる芸術が花開くことになったのである。

【白隠の"禅画"】
白隠250忌ということもあり、東博等で白隠特集が行われた。そのなかで、注目すべきは、いかにも奇異な一群の水墨画。ご教訓や説話的なものからは程遠く、泥臭さい鳥獣戯画的作品と言えなくもない。と言うか、ほぼ漫画。芳澤勝弘 花園大学国際禅学研究所教授によれば、"禅画の賛には、古今の和歌、中世の謡曲や狂言歌謡、さらには同時代の流行歌謡、PRソングまでが取り入れられている"そうで、そこには求道型の姿勢は微塵も感じられない。宗教家としてはえらく異様な体裁。素人観賞だと、一般的な水墨画に、寂静とか深遠さを感じる訳だが、その手の画風を揶揄しているかに映る。白隠は、そのような高踏的な絵画をせせら笑っているかのように思えてくる。臨済宗といえば、茶席の雰囲気のイメージが強いが、そのような知的センスとは相いれそうにない。

(C)Bunkamura「白隠展」2012-2013(MOVIE)
→[削除消滅] 花園大学「白隠禅師250年遠諱記念
  原の白隠さん ―松蔭寺と静岡沼津伝来の禅画・墨蹟―」2017(photo)
大白隠展宮城県の東北歴史博物館、
  並びに松島瑞巌寺開催されている「大白隠展」のブログ"2016(photo)


【白隠が在駿河にこだわった理由の一つ】
東海道の参勤交代の旅程に大名への講和を組み込むことが可能だったことも大きかろう。例えば、「遠羅天釜」@1749年は大名向け。…"鍋島椄州殿下ノ近侍ニ答ウル書"[藩主への養生法解説と参禅上の注意]、"遠方ノ病僧ニ贈リシ書"[病中修行の工夫]、"法華宗ノ老尼ニ贈リシ書"[「法華経」解説]、"念仏ト公案ト優劣如何ノ問イニ答フル書"。[@"仮名法語(芳澤勝弘)"@花園大学国際禅学研究所 白隠フォーラム]


(原典の差違)
遍照金剛撰(空海[774-835年]):「般若心経秘鍵」に、梵字からの翻訳版が記載されている。[@http://www.geocities.jp/whiteprince1jp/h.html]
(1) (鳩摩)羅什三藏翻譯
(2) (玄奘)遍覺三藏翻譯…"仏説摩訶"4文字無し。"五蘊"の下に"等"の字が加わり、"遠離"の下の"切"の字が削除されている。さらに"陀羅尼"の後に"効能"が無い。
(3) 義浄三藏翻譯…"摩訶"が省かれている。真言の後に"効能"が加えられている。
(4) 法月 & 般若三藏翻譯…序文+流通文。
尚、梵語15文字からなら表題の意味はこのような説明。(なんとも言い難し。):2字[圓滿覺者之名]+2字[開悟密蔵施甘露之稱]+2字[就大多勝]+2字[約定慧樹名]+3字[就所作己辨為号]+2字[據處中表義]+2字[以貫線攝持等]



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