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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2018.1.15 ■■■

酉陽雑俎的に「金剛般若經」を読む

金剛経霊験譚についての話から、禅宗を中心とした仏教の話に進んでしまったが、肝心要の鳩摩羅什 譯:「金剛般若波羅蜜經」そのものの内容については、全体構成に触れただけ。[→] 逐語的に見ていくと、かなり"くどい"箇所だらけなので、細かく見る気が失せたためである。

段成式の時代は在家に大人気の経典だったから見ておきたいのはヤマヤマなのだが、現代日本ではそのような面影は全く感じられない状況であり、般若心経のように注釈本を比較することもできないから、避けた方がよいと考えたせいもある。(おそらく、有り難いご真言が入っている訳でもないし、般若心経のように調子よい読経にもならないから、嫌われたのだろう。それに、詩文というより、長たらしい散文なので読誦も敬遠されがちだったのだろう。日本は大乗仏教ではあるが、事実上、法事の儀式宗教の役割を担っているから、内容的にその場面にはそぐわないということもあろう。)
ただ、それなりに、えらく特徴ある経典なのでそのままにしておくのも気分悪し。と言うことで、意を決して、眺めることにした。

この経典で、なんといっても目立つのは、般若心経のような形而上的表現を嫌っていそうな記述になっている点。一般的には、無とか空といった哲学用語然の語彙を使わず粗削りのママという評価であるが、よく読めば、それ以上。「悟り」という、わかりもしない言葉で誤魔化すのはヨセというメッセージを発信しているようにも思えてくる。
そんな気分を伝えることができるか自信はないが、いい加減な自己流で、全体をご紹介しておこう。(全32節だが、最初から恣意的な割り振りに映るから、鳩摩羅什訳文の編纂者が行ったものでは。どう見ても、"節"の区分は、引用し易くする以上の意義はなさそう。)・・・
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【1】法会因由分…

如是我聞。 一時,佛在舍衛國祇樹給孤獨園,與大比丘衆千二百五十人。 爾時,世尊食時,著衣持,入舍衛大城乞食。 於其城中,次第乞已,還至本處。 飯食訖,收衣,洗足已,敷座而坐。
これは聞いた話。・・・
祇園精舎でのこと。そこには、弟子衆1,250人。
[祇園精舎の由来] 身寄りのない者に施しをしている須達多という名前の長者が、釈尊説法の場たる寺院を建造しようと思い立つ。そこで、祇陀太子所有の林を入手しようと。そこは、素敵な地で太子も愛着があったため、超高額にして諦めさせようと図った。ところが、長者は喜んで購入しようという姿勢を示した。太子はその熱意に驚いて喜捨。両者の名前を組み込んで、"祇樹給孤独園精舎"と呼ばれるようになった。
釈尊は上着をつけ鉢を持ち、城内に托鉢へ。
朝の乞飯から戻って、座したところ。

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【2】善現起請分…

時,長老須菩提,在大衆中,即從座起,偏袒右肩,右膝著地,合掌恭敬。而白佛言: 「希有世尊!如來善護念諸菩薩,善付囑諸菩薩。 世尊!善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提心,應云何住?云何降伏其心?」
佛言:「善哉,善哉。須菩提! 如汝所説:如來善護念諸菩薩,善付囑諸菩薩。 汝今諦聽,當為汝説:善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提心,應如是住,如是降伏其心。」
「唯然,世尊!願樂欲聞。」

長老の須菩提、釈尊に訓示を乞う。
「悟って菩薩として歩むことになったら、どのように生活すべきでしょうか?
  さらに、その心を保つにはどうすべきでしょうか?」

そこで、釈尊は、菩提心について語ることに。
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【3】大乗正宗分…

佛告須菩提:「諸菩薩摩訶薩,應如是降伏其心: 所有一切衆生之類,若卵生、若胎生、若濕生、若化生; 若有色、若無色;若有想、若無想、若非有想非無想,我皆令入無餘涅槃而滅度之。如是滅度無量無數無邊衆生,實無衆生得滅度者。 何以故?須菩提!若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相,即非菩薩。」
「どのような類であろうと、すべての衆生を、涅槃の境地に入れねばならぬ。しかし、菩薩が入れることにはならない。と言うのは、そもそも衆生という概念を持っているなら、それは菩薩に該当しないから。自我、人命、衆生、長生は、菩薩にあるまじき観念なのである。」
自我や生命という実体に囚われるな、ということ。
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【4】妙行無住分…

「復次,須菩提! 菩薩於法,應無所住,行於布施。所謂不住色布施,不住聲、香、味、觸、法布施。 須菩提!菩薩應如是布施,不住於相。 何以故?若菩薩不住相布施。其福コ不可思量。」
「須菩提!於意云何?東方虚空,可思量不?」
「不也,世尊!」
「須菩提!南、西、北方,四維上下虚空,可思量不?」
「不也,世尊!」
「須菩提!菩薩無住相布施,福コ亦復如是不可思量。須菩提!菩薩但應如所教住。」

釈尊は、菩薩の態度として必要なことをさらに加えた。
「囚われることなき施しをせよ。
 見返りを期待してはまらぬ。
 そうした功徳の集積は測れないほど膨大なものとなるのである。」
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【5】如理実見分…

「須菩提。於意云何?可以身相見如來不?」
「不也,世尊,不可以身相得見如來。何以故?如來所説身相,即非身相。」
佛告須菩提:「凡所有相,皆是虚妄。若見諸相非相,即見如來。」

「如来の特徴を目指してはならぬ。
 真の如来に特徴など無いからである。
如来に特別な相ありとは、虚偽妄想。」
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【6】正信希有分…

須菩提白佛言:「世尊!頗有衆生,得聞如是言説章句,生實信不?」
佛告須菩提:「莫作是説。如來滅後,後五百,有持戒修福者,於此章句能生信心,以此為實,當知是人不於一佛、二佛、三四五佛而種善根,已於無量千萬佛所種諸善根,聞是章句,乃至一念生淨信者,須菩提!如來悉知悉見,是諸衆生得如是無量福コ。 何以故?是諸衆生無復我相、人相、衆生相、壽者相。」
「無法相,亦無非法相。 何以故?是諸衆生若心取相,則為著我、人、衆生、壽者。」
「若取法相,即著我、人、衆生、壽者。何以故? 若取非法相,即著我、人、衆生、壽者。 是故不應取法,不應取非法。以是義故,如來常説: 汝等比丘,知我説法,如筏者,法尚應捨,何況非法。」

須菩提が訊いた。「後世、説かれた章句を真実と考える者がいるでしょうか?」
「そう考えてはいけない。如來が滅した500年後、
 持戒し智慧のある菩薩が居て、その章句を真実とみなすことになるからだ。
 そのような菩薩は、一人の仏に帰依しているのではなく、
 無量千万の仏に仕えており、章句を聞けば淨信の念が浮かぶものなのである。
 そして、計り知れぬ功徳を施すことになろう。」
釈尊は続けた。
「そのような菩薩は、自我、人命、衆生、長生という観念は無いのである。

法に囚われるな、ということ。
法を筏に例えた説法を知っていれば、わかるだろう。(渡り終えたら、筏は無用となり、捨てねばならぬ。)法さえも捨てなければならぬのだ。法でなければ、なおさらであるのは言うまでもない。」
新たに得た宇宙観の正しさを実感し、それをドグマ的に金科玉条としたところで、所詮はそれはある条件下での全体構造のなかでの話。常に変化している世界だから、そんなものにいつまでも拘っていては拙いのである。柔軟な考え方をせよということ。
たいていは、宗教における"柔軟性"とは、リーダーの時々のお考えに黙々と従うことを意味するが、釈尊の考え方は全く異なり、違って当たり前ダゾと訓示を垂れているようなもの。
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【7】無得無説分…

「須菩提!於意云何?如來得阿耨多羅三藐三菩提耶?如來有所説法耶?」
須菩提言:「如我解佛所説義,無有定法,名『阿耨多羅三藐三菩提』, 亦無有定法,如來可説。 何以故?如來所説法。皆不可取、不可説;非法,非非法。 所以者何?一切賢聖,皆以無為法而有差別。」

質問に応えて、須菩提は言った。
「"如来が作った法とか、説いた法など無い。"と理解しております。
 つまり、如来が悟った法とか、教えた法は、捉えることができませんから、

 そんなものを説明できる訳がないのです。
 賢聖者とは、法でつくられていないからこそ、そう呼べるといえましょう。」
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【8】依法出生分…

「須菩提!於意云何?若人滿三千大千世界七寶以用布施,是人所得福コ,寧為多不?」
須菩提言:「甚多,世尊!何以故?是福コ即非福コ性,是故如來説福コ多。」
「若復有人,於此經中受持,乃至四句偈等,為他人説,其福勝彼。何以故? 須菩提!一切諸佛,及諸佛阿耨多羅三藐三菩提法,皆從此經出。 須菩提!所謂佛法者,即非佛法。」

釈尊は又質問。
「諸々の如来に対し、三千大千世界を悉く七宝で満たすようなお布施を行うと、
 その功徳としての福コはいかほどになるか?」
須菩提は、それは福コではありますが、福コでないとも、と答え、
「だからこそ、如来は多くの福コが得られると説いたのでしょう。」
そこで、釈尊は、そのようなお宝以上の功徳の根源について話始めた。
「偈の四句であろうと、自分のものとして、他人に説いたとしよう。
 さすれば、その功徳は七寶と比較にならぬほど素晴らしいものなのだ。
 その理由は、如来の悟りの源泉はココにあるから。
 如来に言わせれば、

 仏法とは、仏法に囚われないから、仏法なのだ。
この論理こそが、"般若=智慧"を獲得する黄金律と解釈されている。それこそが"悟り=覚り"。
仏教徒はそこに達することが求められており、大乗仏教は他人にもそのお勧めをすることで、覚った人からなる「仏国土」を実現しようというのが、基本スローガンと言えそう。「金剛般若經」とは、開悟は核心だが、そこに至ったところで、菩薩道の入口にすぎないとの教え。覚ってから、こだわりを捨てて、大衆を救うことを第一義においた活動をすることこそが菩薩道という点をくどいほど繰り返している。。
段成式的には、おそらく論理的には納得であろう。しかしながら、仏教弾圧を眼前に眺め、冷静に判断する限り、それは見果てぬ夢と考えていたと思われる。と言うのは、インテリであっても、「金剛般若經」の論理をそう簡単に納得できる訳がなかろうと実感していたに違いないからだ。・・・
一般常識に従う人なら、「AはAではない。だからこそAなのである。」と言ったりはしないから、理解し難いのが普通。しかし、宗教の経典と見なせば、たいした問題ではないとも言える。例えば、呪言同様に、一般人の発想を超越した霊的言動と見なせば、どうということもないからである。換言すれば、一般人が経典解釈する意味など無いということになろう。マ、宗教教団とは得てしてそういう風土に染まってくるもので、最高幹部の解釈に全員が黙々と従うことで組織が成り立っていることが多い。反対者は裁判にかけられる訳である。

段成式型のインテリは、そのような、個人の精神領域にまで組織が踏み込んでくる仕組みを一番嫌う訳で、だからこそ、仏教徒だったとも言えよう。そういう精神構造だとすれば、この得体の知れぬ論理は、「当たり前」に映った可能性の方が高い。簡単に言えば、絶対的なモノなどなく、すべては相対的なものにすぎないということで。・・・

思惟の世界は、概ね、比較から始まる訳で、"A v.s. nonA"ということでAという概念が定められる。全体を措定した上で、線引きして、その他とは違うものとしてAが存在すると規定する訳である。
この概念を共有するために使われるのが言語。Aという語彙が社会的に認められることになる。ところが、定義されたトタン、その概念の曖昧化が始まる。例外が見つかったり、境界領域でどうとでもとれるものが指摘されるからだ。一般には、それは奇異と見なされる訳で、場合によっては、不可思議と言われたりする。そうなると、概念を変えるか、奇異なものは別な世界にあると見なすのどちらかを選ぶことになる。インテリなら、こんなことは百も承知の筈。(新しい概念導入は、古い概念を変えることに直結する。ところが、社会的に通用しているから、変えるのは極めて難しく、なんとかし古い概念のなかに入れ込むような工夫が図られるので、概念の内部が細分化していくことになるが、それは詳細化に映るが、実は概念の曖昧化に他ならない。)
「酉陽雑俎」は、そこら辺りをしつこく追求している訳である。(常識で考えれば、この書籍の異常さに気付く筈。・・・金剛経奇譚というか霊威譚の篇があり、長安のお寺巡礼記がある一方で、風俗探訪や珍しい動植物紹介、狩りについては全く触れずに鷹狩用の鷹についての話と、およそ関係ないものが同居している。はては妖怪話と一緒に編纂されている。博物学の本ではないにもかわらず。しかも、人身御供のお祭りで地域を支配する術師を退治する官僚や、ご利益にかこつけた誘拐や盗賊業に精を出す僧も登場する。)

従って、そんな感覚で、「金剛般若經」の言葉をとらえていれば、どうということはない。・・・
Aというモノは仮に定義されているが、はっきり決まった実体ではなく、相対的に他とは違うと決めつけて生まれた幻想でしかない。しかし、コミュニケーションとして言葉を使う以上はそれをAと呼ぶ以外に手は無い。
コレ、インテリからすれば常識。だが、そんなことをグダグダ言ったところで、そのようなことを商売のネタにしている人以外はほとんど意味がないから、口にしないだけ。

しかし、そうしたモノの見方を、生と死にまで持ち込むと、納得できるかといえば、まず間違いなく"No."だろう。さらに、過去〜現在〜未来を画然と分けるのも、幻想であると言われると、無常感は持っていても、にわかに"その通り"とは言い難かろう。
とは言え、インテリであるだけに、考えてみれば、本来はそういうものかも知れぬという気にもなってくるかも。確信とは程遠い訳だが。・・・
つまり、「右だ、左だ、というのは相対的判定」という誰が考えても当たり前の話と思っていると、突然にして、そこから飛躍した話に繋がっていく。インテリの習い性で、真面に考えているから、ここで突如奈落に突き落とされるのである。自らの感覚器官で、対象から受けた刺激により、当該対象の存在を実感している訳だが、それは、左右認識となんらかわらず、自ら産み出した幻想と指摘されてしまうからだ。自我を棄てさえすれば、客体と主体という見方から、両者の相互干渉であることがわかるというのである。両者が別途存在しているとの考えは、自ら産み出した幻想にすぎぬと言われてしまうと、反論は簡単ではない。さらに、それをつきつめると、そのような考え方たる"法"そのものも、自ら産み出したものの見方であり、実体などないと切って捨てられるのだ。この考え方に共感を覚えるか否かは別として、インテリにとっては衝撃的なものの見方であるのは間違いない。(尚、中国語の文章には主語が不可欠であり、その主体が客体にどうかかわるかを記載することになるから、このような世界を文章で説明することは不可能なのは当然である。)
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【9】一相無相分…

「須菩提!於意云何?須陀能作是念:『我得須陀果』不?」
須菩提言:「不也,世尊!何以故?須陀名為入流,而無所入; 不入色、聲、香、味、觸、法,是名須陀。」
「須菩提!於意云何?斯陀含能作是念:『我得斯陀含果』不?」
須菩提言:「不也,世尊!何以故?斯陀含名一往來,而實無往來,是名斯陀含。」
「須菩提!於意云何?阿那含能作是念:『我得阿那含果』不?」
須菩提言:「不也,世尊!何以故?阿那含名為不來,而實無不來,是故名阿那含。」
「須菩提!於意云何?阿羅漢能作是念:『我得阿羅漢道』不?」
須菩提言:「不也,世尊!何以故?實無有法名阿羅漢。 世尊!若阿羅漢作是念:『我得阿羅漢道』即為著我、人、衆生、壽者。 世尊!佛説我得無諍三昧,人中最為第一,是第一離欲阿羅漢。 我不作是念:『我是離欲阿羅漢。』 世尊!我若作是念:『我得阿羅漢道。』世尊則不説須菩提是樂阿蘭那行者。 以須菩提實無所行,而名須菩提,是樂阿蘭那行。」

釈尊は、続けざまに、須菩提に問う。
「"須陀が、自分は、須陀果に到達した。"と考えるものかネ?」
「"一往來者が、自分は、一往來果に到達した。"と考えるものかネ?」
「"阿那含が、自分は、阿那含果に到達した。"と考えるものかネ?」
「"阿羅漢が、自分は、阿羅漢果に到達した。"と考えるものかネ?」
須菩提、それぞれに答えた。
「自我、人命、衆生、長生の執着を棄てたなら、そう考える訳なし。」と。

"称名を得ても、何かを得たと考えるな。"ということ。
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【10】荘厳浄土分…

佛告須菩提:「於意云何?如來昔在燃燈佛所。於法有所得不?」
「不也,世尊!如來在燃燈佛所。於法實無所得。」
「須菩提!於意云何?菩薩莊嚴佛土不?」
「不也,世尊!何以故?莊嚴佛土者,即非莊嚴,是名莊嚴。」
「是故,須菩提!諸菩薩摩訶薩,應如是生清淨心,不應住色生心,不應住聲,香,味,觸,法生心,
應無所住而生其心。」
「須菩提!譬如有人,身如須彌山王,於意云何?是身為大不。」
須菩提言:「甚大,世尊!何以故?佛説非身,是名大身。」

釈尊の質問に須菩提が答える。
「燃燈という名の仏を師と仰いでも、如来が師から得たモノはありません。」
そこで、釈尊説く。
「"莊嚴佛土"実現と言う菩薩がいたら、嘘つきと思え。

 仏土に住むとは、実体ではなく、
  それを越えた心を意味するからだ。
   声、香、味、接触、心が感じるモノ、に執着する、心のもちようは駄目だ。」
釈尊の質問に須菩提が答える。
「たとえ、山のように巨大で健全な肉体があっても、
 (拘りをすててしまえば、)それは身体ではありません。
 しかし、だからこそ、それを身体と呼ぶのです。」

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【11】無為福勝分…

「須菩提!如恆河中所有沙數,如是沙等恆河,於意云何?是諸恆河沙,寧為多不?」
須菩提言:「甚多,世尊!但諸恆河,尚多無數,何況其沙。」
「須菩提!我今實言告汝:若有善男子、善女人, 以七寶滿爾所恆河沙數三千大千世界,以用布施,得福多不?」
須菩提言:「甚多,世尊!」
佛告須菩提:「若善男子、善女人, 於此經中,乃至受持四句偈等,為他人説,而此福コ,勝前福コ。」

「須菩提よ。ここで、教えてあげよう。
 ガンジス河の砂粒の数ほど多くの七宝で三千大千世界を満たすほど、
 諸々の如来に布施をしたとする。
 とてつもなく多くの功徳を行ったことになろう。
 しかし、偈の四句を、他人に説いたとしたら、
 その功徳は素晴らしいものなのだ。

 功徳を重ねるだけでなく、その意義を広めよ。」
ここが利他主義がベースになっている大乗らしき箇所。一人で、その一身を、気の遠くなるほど膨大なほどに、すべてを捧げ尽くしたところで、それはたいした功徳にならないのだヨという教え。それよりは、四行詩ひとつでも、他人のために教えて、悟りの意義を説得する方が価値が高い、というだけの話でしかないが。
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【12】尊重正教分…

「復次,須菩提!隨説是經,乃至四句偈等, 當知此處,一切世間,天、人、阿修羅,皆應供養,如佛塔廟。何況有人,盡能受持讀誦。 須菩提!當知是人成就最上第一希有之法,若是經典所在之處,即為有佛,若尊重弟子。」
「須菩提よ。偈の四句を、他人に説いたとしたら、
 その地は、天〜人〜阿修羅の住む宇宙のなかで、
 仏の塔廟とされ供養されることになる。
 受持読誦できるようになり、説教するようになれば、
 第一人者として稀有な存在となり、経典の地となる。
 仏有りの地となり、師と同等になるのだ。

 衆生のために法を説くことこそ、知恵の塊ということ。」
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【13】如法受持分…

爾時,須菩提白佛言:「世尊!當何名此經?我等云何奉持?」
佛告須菩提:「是經名為金剛般若波羅蜜,以是名字,汝當奉持。所以者何? 須菩提!佛説般若波羅蜜,即非般若波羅蜜。 須菩提!於意云何?如來有所説法不?」
須菩提白佛言:「世尊!如來無所説。」
「須菩提!於意云何?三千大千世界所有微塵,是為多不?」
須菩提言:「甚多,世尊!」
「須菩提!諸微塵,如來説非微塵,是名微塵。如來説:世界,非世界,是名世界。 須菩提!於意云何?可以三十二相見如來不?」
「不也,世尊!不可以三十二相得見如來。何以故? 如來説:三十二相,即是非相,是名三十二相。」
「須菩提!若有善男子、善女人,以恆河沙等身命布施; 若復有人,於此經中,乃至受持四句偈等,為他人説,其福甚多!」

ここまできて、須菩提は、その経典の名称と、そのように奉持すべきか、尋ねた。
釈尊答える。
「"金剛般若波羅蜜"であり、奉持すればよい。
 要するに、
法を説き明かす法こそが究極の功徳なのだ。
 般若波羅蜜は到達する意味だが、到達しないからこそ般若波羅蜜なのである。
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【14】離相寂滅分…

爾時,須菩提聞説是經,深解義趣,涕悲泣,而白佛言:「希有!世尊!佛説如是甚深經典,我從昔來所得慧眼,未曾得聞如是之經。世尊!若復有人,得聞是經,信心清淨,則生實相,當知是人,成就第一希有功コ。世尊!是實相者,則是非相,是故如來説名實相。世尊!我今得聞如是經典,信解受持不足為難; 若當來世,後五百,其有衆生,得聞是經,信解受持,是人則為第一希有。何以故?此人無我相、人相、衆生相、壽者相。所以者何? 我相,即是非相;人相、衆生相、壽者相,即是非相。何以故? 離一切諸相,則名諸佛。」
佛告須菩提:「如是,如是! 若復有人,得聞是經,不驚、不怖、不畏,當知是人,甚為希有。何以故? 須菩提!如來説:第一波羅蜜,即非第一波羅蜜,是名第一波羅蜜。 須菩提!忍辱波羅蜜,如來説非忍辱波羅蜜。何以故? 須菩提!如我昔為歌利王割截身體,我於爾時,無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。 何以故?我於往昔節節支解時,若有我相、人相、衆生相、壽者相,應生瞋恨。須菩提!又念過去於五百世作忍辱仙人,於爾所世,無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。 是故須菩提!菩薩應離一切相,發阿耨多羅三藐三菩提心。 不應住色生心,不應住聲、香、味、觸、法生心,應生無所住心。若心有住,則為非住。」
「是故佛説:菩薩心不應住色布施。須菩提!菩薩為利益一切衆生,應如是布施。 如來説:一切諸相,即是非相。又説:一切衆生,即非衆生。 須菩提!如來是真語者、實語者、如語者、不誑語者、不異語者。」
「須菩提!如來所得法,此法無實無虚。 須菩提!若菩薩心住於法而行布施,如人入闇,則無所見; 若菩薩心不住法而行布施,如人有目,日光明照,見種種色。」
「須菩提!當來之世,若有善男子、善女人,能於此經受持讀誦,則為如來,以佛智慧, 悉知是人,悉見是人,皆得成就無量無邊功コ。」

須菩提、この説教を聞き、教えに感動し、感涙にむせぶ。
「これほど稀有なこともありますまい。
 深い道が説かれ、我も眼が覚めました。このような説教は未曽有そのもの。
 この経典を真実と見なす菩薩は、功徳の第一人者となりましょう。
 真実との観念は、即、真実の観念でなく、だからこそ真実の観念なのですから。
 500年後、この経典を信解、受持する人は、稀有な第一人者となりましょう。」
釈尊ここで、注意を与えた。
「その通り。
 如来は波羅蜜=到達を説くが、それは波羅蜜=到達ではないのだ。
 無数の仏や菩薩も説く。
 だからこそ、波羅蜜=到達と言える訳だ。
 忍辱波羅蜜で考えてみれば、波羅蜜=到達の意味がわかろう。
 肉を切り取られた時、
 自我、人命、衆生、長生という観念を捨て切っていなければ、
 衆生、命、自分という気持ちが沸き上がり、敵意が生ずるのである。
 そうならなかったのは、500世の昔に忍辱仙人だったから、
 自我、人命、衆生、長生という観念が無かったせい。
 菩薩は、執着してはならぬのだ。
 法に囚われた布施をするな、ということ。」
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【15】持経功徳分…

「須菩提!若有善男子、善女人, 初日分以恆河沙等身布施, 中日分復以恆河沙等身布施, 後日分亦以恆河沙等身布施, 如是無量百千萬億劫,以身布施; 若復有人,聞此經典,信心不逆,其福勝彼,何況書寫、受持、讀誦、為人解説。」
「須菩提!以要言之,是經有不可思議、不可稱量、無邊功コ。 如來為發大乘者説,為發最上乘者説。若有人能受持讀誦,廣為人説,如來悉知是人,悉見是人, 皆成就不可量、不可稱、無有邊、不可思議功コ。」
「如是人等,則為荷擔如來阿耨多羅三藐三菩提。 何以故?須菩提!若樂小法者,著我見、人見、衆生見、壽者見, 則於此經不能聽受、讀誦,為人解説。」
「須菩提!在在處處,若有此經,一切世間,天、人、阿修羅,所應供養;當知此處,則為是塔,皆應恭敬,作禮圍遶,以諸華香而散其處。」

「ガンジス河の砂粒の数ほど、身体での布施を行うことより
 経典を聞いて、反抗心を持たぬことの方が功徳につながる。
 写経、受持、読誦、他人への解説となればさらなり。
 この法は、至高の道を歩む人のためのもの。
 それに該当しない、観念を捨てられない人は、聴く耳持たずだ。
 菩薩の道を歩め。

 小乗に止まらず、大乗を求めよ。」
「金剛般若經」には、"小乗"も"大乗"も、用語として使われていないが、自身の修行のために没入する姿勢には極めて批判的。釈尊の教えを揶揄する人々の話を持ち出しているが、そんな人々をあえて救おうとは考えていないことがわかる。
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【16】能浄業障分…

「復次,須菩提!善男子、善女人,受持讀誦此經,若為人輕賤,是人先世罪業,應墮惡道,以今世人輕賤故,先世罪業則為消滅,當得阿耨多羅三藐三菩提。」
「須菩提!我念過去無量阿僧祇劫,於燃燈佛前,得八百四千萬億那由他諸佛,悉皆供養承事,無空過者; 若復有人,於後末世,能受持讀誦此經,所得功コ, 於我所供養諸佛功コ,百分不及一,千萬億分、乃至算數譬所不能及。」
「須菩提!若善男子,善女人,於後末世,有受持讀誦此經, 所得功コ,我若具説者,或有人聞,心則狂亂,狐疑不信。 須菩提!當知是經義不可思議,果報亦不可思議!」

「ここで留意すべきことあり。
 受持読誦をしても、人から軽蔑卑賤扱いを受けることになる。
 それは、前世の悪業による。
 その罪業を消し去って、菩提に至るということ。
 だが、無限と思えるほど長い前世で諸仏を供養してきたとしても
 それはこの先500年後の、受持読誦解説する人達の功徳と比べれば、
 100分の1どころか、とてつもない無量大数分の1にさえ達しないレベル。
 従って、
受持、読誦、説法で悪業を清算すべし。
 将に、不可思議極まる効果なのである。」
ここ迄で全32節の丁度半分。
「考えないことこそが、考えることになる。」式の常識では理解できない論述形式が多用されるのが特徴。その真意は、自分の心にはこだわりがあるから、それを棄てよということだろう。第15節には、「小乗に止まらず、大乗を求めよ。」と書いてある訳ではないが、小生はここが根本思想と見た。こだわりを持たぬ心を持つことができれば、こだわりなき布施の生活に入ることができるようになり、人々を救うことができるという論理なのだと思う。その論理の源泉がわかるように、常識的な感覚を呼び覚ますようにもなっている。・・・こんなモノをこのような恵まれないヒトに与えたという満足感を覚えるような自称功徳は、徳とは言えないということ。
そういうことで、17節が最終とされ、そこで"まとめ"に入ればそれなりにわかり易いのだが、そうはなっていない。この先、延々と前半の内容が繰り返されるのである。
「くどい」というより、気にいった部分を並べただけのようにも思えてくる。「酉陽雑俎」の各篇にしても、一見、順番を考えずにお話を詰め込んだだけに見えるが、それと同じような編纂になっている訳だ。その方が、実は、"自分の頭で考える"ためには優れた記述と言えるのかも知れない。スローガンや情報を頭に叩きこもうという目的ではないのだから。
「酉陽雑俎」の読者であるインテリは、覚え込まされたドグマに随い、手慣れた論理性や合理性で理解しようとする。段成式は、そんな頭の働かし方を止めさせるための様々な工夫をした訳だが、それは「金剛般若経」の展開に倣ったのかも知れない。
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【17】究竟無我分…

爾時,須菩提白佛言:「世尊!善男子、善女人, 發阿耨多羅三藐三菩提心,云何應住?云何降伏其心?」
佛告須菩提:「善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提心者, 當生如是心:我應滅度一切衆生。滅度一切衆生已,而無有一衆生實滅度者。何以故? 須菩提!若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相,則非菩薩。所以者何? 須菩提!實無有法,發阿耨多羅三藐三菩提心者。」
「須菩提!於意云何?如來於燃燈佛所,有法得阿耨多羅三藐三菩提不?」
「不也,世尊!如我解佛所説義,佛於燃燈佛所,無有法得阿耨多羅三藐三菩提。」
佛言:「如是,如是!須菩提!實無有法,如來得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提!若有法,如來得阿耨多羅三藐三菩提者,燃燈佛則不與我授記: 『汝於來世,當得作佛,號釋迦牟尼。』以實無有法得阿耨多羅三藐三菩提, 是故燃燈佛與我授記,作是言:『汝於來世,當得作佛,號釋迦牟尼。』 何以故?如來者,即諸法如義。」
「若有人言:如來得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提!實無有法,佛得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提!如來所得阿耨多羅三藐三菩提,於是中無實無虚。 是故如來説:一切法皆是佛法。 須菩提!所言一切法者,即非一切法,是故名一切法。」
「須菩提!譬如人身長大。」
須菩提言:「世尊!如來説:人身長大,則為非大身,是名大身。」
「須菩提!菩薩亦如是。若作是言:我當滅度無量衆生,則不名菩薩。何以故? 須菩提!實無有法名為菩薩。是故佛説一切法,無我、無人、無衆生、無壽者。」
「須菩提!若菩薩作是言:『我當莊嚴佛土』,是不名菩薩。何以故? 如來説:莊嚴佛土者,即非莊嚴,是名莊嚴。」
「須菩提!若菩薩通達無我、法者,如來説名真是菩薩。」

「釈尊!
 修行者が真の悟りを得たいと心に決めたなら、
 どのような生活、どのような心の持ちようがよいのでしょう?」
釈尊の答は明確。・・・
単に、悟りたいということでは自我があるから駄目。
先ずは、悟りに進もうとの心を生み出すこと。
煩悩を滅して、全ての人々に悟りを開かせようとならないと。

すでに同じような質問をしており、くりかえしにすぎない。
ただ、心に浮かぶ煩悩を"降伏"するゾとの気迫が正面にでてきており、ご注意を与えているのである。
しかも、目標としている悟りとは、実は悟りに当たらないと示唆しているのである。全員を悟りに導いたところで、宇宙が変わる訳ではないことに気付けヨ、ということ。換言すれば、個々人が悟るということ自体が有り得ない訳だ。それを理解した上で、悟りを得るために修行せよ、となる。
「須菩提よ。
 如來は、燃燈佛の所で、開悟したのか?」
「そんなことは、ありえません。」
「須菩提!その通り!
 如来は燃燈佛の所で修行し、
  "汝は来世に、釋迦牟尼と号す仏になる。"
   と授記頂いたのだが、それは実体として得たものか?
 "阿耨多羅三藐三菩提"なる開悟は獲得するものか?」
「その見方は間違いです。
 実体がある訳ではないから。」
「その通り!その通り!」

須菩提との掛け合いで、悟りそのものも、実体なきものであることが見えてくるようになっているのである。ただ、"無い"と言っても、それは所謂虚無感を意味している訳ではない。
善を追及するといっても、善悪とは相対的に産まれた概念でしかないから、そのような実体は無いと言っているのと同じ。世の中、あるがままを受け取ればよいだけ。要するに、宇宙のあるがままを感じ取り、それに逆らわずに生きヨということになる。
そして、再び、"仏法とは、仏法に囚われないから、仏法なのだ。"と同じ言い回し。
「所謂、一切の法とは、即、一切の法ではない。だから、一切の法と名付けるのだ。」
個別の概念をいくら寄せ集めたところで、全体の概念がつかみ取れる訳がないのはわかりきったこと。それに、実体としてとらえている個々のモノにしても、主客をバラバラにした心の幻想でしかない。そんな概念一切合切をまとめたところで、それが実体になる訳がなかろうということ。そもそも、すべては変化している一体構造なのだから、そこから一部を切り出したところで実体がある筈がなかろうということ。
しかし、それに名前をつけることはできるというにすぎまい。
このように考えるなら、衆生を開悟させようという姿勢で修行しているなら、それは菩薩の道からの逸脱。
つまり、衆生を涅槃に導く決意は、無我の法に反することになる。
真に菩薩と名付けることができるのは、"無我"、つまり真理を極めた者だけ。
すべては、繋がっており、相互に影響しあい依存していおり、変化し続ける。"我"という実体を措定することは無理であり、存在しているのは"現象"ということ。
くり返しではあるが、より深く考えさせる節として設定されたのかも。
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【18】一体同観分…

「須菩提!於意云何?如來有肉眼不?」
「如是,世尊!如來有肉眼。」
「須菩提!於意云何?如來有天眼不?」
「如是,世尊!如來有天眼。」
「須菩提!於意云何?如來有慧眼不?」
「如是,世尊!如來有慧眼。」
「須菩提!於意云何?如來有法眼不? 」
「如是,世尊!如來有法眼。」
「須菩提!於意云何?如來有佛眼不?」
「如是,世尊!如來有佛眼。」
「須菩提!於意云何?如恆河中所有沙,佛説是沙不?」
「如是,世尊!如來説是沙。」
「須菩提!於意云何?如一恆河中所有沙,有如是沙等恆河,是諸恆河所有沙數,佛世界如是,寧為多不?」
「甚多,世尊。」
佛告須菩提:「爾所國土中,所有衆生,若干種心,如來悉知。何以故? 如來説:諸心皆為非心,是名為心。所以者何? 須菩提!"過去心不可得,現在心不可得,未來心不可得。"」

ここで釈尊、須菩提にしつこく、如来が持っているべき"慧眼"について尋ねる。
その上で、ガンジス河の砂粒の数ほどある、仏の世界の膨大さを確認した上で、如来ならその心をお見通しの筈と結論づける。
だが、それは尋常ならざることであり、それなりの姿勢をとる必要がある。
「心は遷ろう。
 無数の衆生の心が存在することをわきまえよ。」
 
ということになる。
しかし、如来は、無数の心を知っているのである。
当然ながら、それは、個別のそれぞれの心を見通せるということではなく、そうした心に実体などないから、一体としての宇宙的現象として理解しているということにすぎまい。
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【19】法界通化分…

「須菩提!於意云何?若有人滿三千大千世界七寶,以用布施,是人以是因,得福多不?」
「如是,世尊!此人以是因,得福甚多。」
「須菩提!若福コ有實,如來不説得福コ多;以福コ無故,如來説得福コ多。」

無量の功徳も、実があったら功徳にならぬ。
実体として措定するから、お宝を布施すれば功徳ありと考えたりするわけで、幸せが降ってくるといった手の発想は勝手な幻想でしかないし、お宝という概念も幻想なら、行為自体が無意味になってこよう。如来からすれば、宇宙=我でもあり他者でもあるということであり、そのようなお布施にほとんど意味はないと言えよう。
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【20】離色離相分…

「須菩提!於意云何?佛可以具足色身見不?」
「不也,世尊!如來不應以具足色身見。何以故? 如來説:具足色身,即非具足色身,是名具足色身。」
「須菩提!於意云何?如來可以具足諸相見不?」
「不也,世尊!如來不應以具足諸相見。何以故? 如來説:諸相具足,即非具足。是名諸相具足。」

如来の、色身や諸相のような外見は妄想だから求めるな。
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【21】非説所説分…

「須菩提!汝勿謂如來作是念:『我當有所説法。』莫作是念。何以故? 若人言:如來有所説法,即為謗佛,不能解我所説故。 須菩提!説法者,無法可説,是名説法。」
爾時,慧命須菩提白佛言:「世尊!頗有衆生,於未來世,聞説是法,生信心不?」
佛言:「須菩提!彼非衆生,非不衆生。何以故? 須菩提!衆生衆生者,如來説非衆生,是名衆生。」

菩薩には、教示すべき法はないし、説く対象の衆生もいない。
ここは、仏教の仏教らしさを示す箇所。"真理"は実体ではないのだから、如来の説く"真理"とはこういうことダ、とは口が裂けても言えないのである。そんな発言は、仏教に対する誹謗中傷の類とまで書いているのだから徹底している。
もっとも、現実の仏教教団の姿勢は全く違うと言ってよいだろう。段成式のような在家インテリと、そのサロンに属す僧達だけが共有している感覚だと思われる。
そして、衆生は衆生ではないから衆生であるとの言葉が発せられる。"あ〜、これがこだわりの無い世界なのダ。"と現実をママで受け入れる人がいるかいないかという問題の立て方ではなく、そのような見方があると気付いた時にすでに妄想から脱皮し始めていることに気付くべしということ。
マ、論理からいえば自明である。ヒトとは、悟ることができる生物ということで他と峻別して創造した心の幻想とも言える訳だから。
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【22】無法可得分…

須菩提白佛言:「世尊!佛得阿耨多羅三藐三菩提。為無所得耶?」
佛言:「如是,如是。須菩提!我於阿耨多羅三藐三菩提乃至無有少法可得, 是名阿耨多羅三藐三菩提。」

須菩提質問。
「釈尊!
 開悟されても、得たものは何も無かったということでしょうか?」
釈尊即答。
 「まったくその通り。まったくその通り。」

如来は、法を得た訳でないからこそ、菩提を悟ったのである。
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【23】浄心行善分…

「復次,須菩提!是法平等,無有高下,是名阿耨多羅三藐三菩提; 以無我、無人、無衆生、無壽者,修一切善法,則得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提!所言善法者,如來説即非善法,是名善法。」
法には差別など皆無で、我も衆生も無いのである。
"自他"という、幻想を捨てれば、区別すること自体がなくなるから、ヒトの上下関係など成り立たないし、偉いか否かという話も消滅してしまう。
善とか悪という、心が区別することで作り出した幻想も失せることになる。そうなれば、善とは、善悪を越えたものになり、ママの流れに沿うことを意味しよう。

全宇宙の流れに逆らうなということ。
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【24】福智無比分…

「須菩提!若三千大千世界中,所有諸須彌山王,如是等七寶聚,有人持用布施; 若人以此《般若波羅蜜經》,乃至四句偈等,受持讀誦,為他人説, 於前福コ百分不及一,百千萬億分、乃至算數譬所不能及。」
「法を施すことは、比類なき功徳。
 だから、「金剛般若波羅蜜經」を受持読誦し、他人にも説くように。」
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【25】化無所化分…

「須菩提!於意云何?汝等勿謂如來作是念:『我當度衆生。』須菩提!莫作是念。 何以故?實無有衆生如來度者。若有衆生如來度者,如來則有我、人、衆生、壽者。 須菩提!如來説:『有我者,則非有我,而凡夫之人以為有我。』 須菩提!凡夫者,如來説則非凡夫。」
如来は凡人とかわらず、救える訳ではない。
ここらは、如来の定義がよくわからないので、何を言いたいのか判然としない。すでに全宇宙を体現しているのが如来とすれば、常識的には、衆生という"幻想"概念に係わることはない筈。菩薩とは違い、人々を救うという役割からは離脱しているのではないかと思うが。(阿弥陀如来来迎信仰もあるので、そうとも言えないが。)
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【26】法身非相分…

「須菩提!於意云何?可以三十二相觀如來不?」
須菩提言:「如是!如是!以三十二相觀如來。」
佛言:「須菩提!若以三十二相觀如來者,轉輪聖王則是如來。」
須菩提白佛言:「世尊!如我解佛所説義。不應以三十二相觀如來。」
爾時,世尊而説偈言:
「若以色見我,以音聲求我,是人行邪道,不能見如來。」

三十二相だから如来なのではない。
理想論。如来像を捨て去ることはできなかったのである。
ここで、偈。
 色を以って、我を見て、
 音声を以って、我を求むるなら、
 是の人、邪道を行くなり。
 如来を見ること不可能。

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【27】無断無滅分…

「須菩提!汝若作是念:『如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。』 須菩提!莫作是念:『如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。』」
「須菩提!汝若作是念,發阿耨多羅三藐三菩提心者,説諸法斷滅。莫作是念!何以故? 發阿耨多羅三藐三菩提心者。於法不説斷滅相。」

菩提心を発すると、諸法が断滅されるなどある訳がない。
三十二相などという外見など関係ないゾというのは、納得し易いが、そこで、ソモソモ論に戻るようだ。悟ったか、悟りはまだか、という発想自体が煩悩の世界の発想ということで。生成消滅も幻想でしかない訳だし。
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【28】不受不貪分…

「須菩提!若菩薩以滿恆河沙等世界七寶布施; 若復有人,知一切法無我,得成於忍,此菩薩勝前菩薩所得功コ。何以故? 須菩提!以諸菩薩不受福コ故。」
須菩提白佛言:「世尊!云何菩薩不受福コ?」
「須菩提!菩薩所作福コ,不應貪著。是故説不受福コ。」

囚われないからこそ功徳になる。
菩薩は福徳に執着しないものである。
ここで、また、しつこく功徳話。布施より、智慧だというにすぎないが。
と言うより、智慧=開悟すれば、当然ながら自然体で布施ができるようになるということだと思うが。
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【29】威儀寂静分…

「須菩提!若有人言:如來若來若去,若坐若臥,是人不解我所説義。何以故?如來者,無所從來,亦無所去,故名如來。」
「"如来が、来る、去る、座る、臥せる"ことはない。そこに居るからだ。
そんなことを言う人は、私の説教を理解しておらぬ。」
"如来=真如から来た"という意味なので、解説したのだろうか。くり返し述べているように、何処からか来たり往ったりする実体がある訳ではない。それを人格的なものとすべきでないという原則論。現実はヒト的な仕草を示す如来像だらけ。
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【30】一合離相分…

「須菩提!若善男子、善女人,以三千大千世界碎為微塵,於意云何?是微塵衆寧為多不?」
「甚多,世尊!何以故?若是微塵衆實有者,佛則不説是微塵衆。所以者何? 佛説微塵衆,則非微塵衆,是名微塵衆。」
「世尊!如來所説三千大千世界,則非世界,是名世界。何以故? 若世界實有者,則是一合相。如來説一合相,則非一合相,是名一合相。」
「須菩提!一合相者,則是不可説;但凡夫之人貪著其事。」

大世界も、それを粉微塵にした世界も、実体は無い。
当然ながら、モノの構成要素を細分化して、その粒子を集めたものが実体という発想は浮かんでこないのである。微塵は、現象を記述したにすぎず、実体ではないと考えるからである。
宇宙とか、全世界と言い出すと、それが実在しているとしてこだわりかねないから止めるべきだ。それを一合相だとみなして、その世界に没入しかねない。そんな話を説いてはいけない。
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【31】知見不生分…

「須菩提!若人言:佛説我見、人見、衆生見、壽者見。 須菩提!於意云何?是人解我所説義不?」
「不也,世尊!是人不解如來所説義。何以故? 世尊説我見、人見、衆生見、壽者見,即非我見、人見、衆生見、壽者見, 是名我見、人見、衆生見、壽者見。」
「須菩提!發阿耨多羅三藐三菩提心者, 於一切法,應如是知,如是見,如是信解,不生法相。 須菩提!所言法相者,如來説即非法相,是名法相。」

如来の説く法の見解は、如来の考えではない。
くどい。
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【32】応化非真分…

「須菩提!若有人以滿無量阿僧祇世界七寶,持用布施;若有善男子、善女人, 發菩薩心者,持於此經,乃至四句偈等,受持讀誦,為人演説,其福勝彼。 云何為人演説,不取於相,如如不動。何以故?」
「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」
佛説是經已,長老須菩提及諸比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、 一切世間天、人、阿修羅,聞佛所説,皆大歡喜,信受奉行。

"結論"
   一切有為法
   如夢幻泡影
   如露亦如電
   應作如是觀
    智慧の教えを学び、もっぱら施せ。
    現象界は、
    夢、幻、泡、影、のようなもの、
    霧、雷のようなもの、と考えよ。
釈尊は説き終わり、皆、大いに歓喜、信受し奉行したのである。
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【真言】

那謨婆伽跋帝 鉢喇壤 波羅弭多曳
伊利底伊室利
輸盧 毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶

[大正藏第08冊 No.0235]


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