→INDEX ■■■ 歴史観 2021.5.14 ■■■ [5] 米国政治の変化は実はわかり易い 自分なりの歴史観があればの話だが。 小難しい知識も不要で、素直に考えるだけで十分。それなりの知識があるとかえってわからなくなるだけ、と言えなくもない。 ともかく、米国は、キリスト教という土台ありきの国であることを今一度確認することに尽きる。 ・・・ところがこれを怠っているのが現実。 そんなことは、大統領就任式を見てよく知っていると思ってしまいがちなのだ。現大統領もしばしばGodと口に出すのを映像で見ているから、ついついわかっている気になってしまう。この状況から脱すればよいだけのこと。 そのためには、政治的変化が発生したら、信仰とどうかかわっていそうか考えたことがあるかの自省が必要かも。 但し、これは結構難しい。例えば、エバンジェリストはどのような姿勢をとっているか云々という解説を読んでいるから、それだけで、一応は検討したと考えてしまうからだ。頭など何も使っていないこと歴然だが、そうとは思っていないせい。 こういうこと。・・・ 米国がキリスト教国なのは自明。しかし、人々の信仰がどうなっているかの全体観は持っていないし、それを考えたこともないのでは。しかし、そんな状態であるにもかかわらず、社会の流れが読めると考えてよいものか。 おそらく、誰もそんなことを言わないと思う。それは、こんなことを指摘すると、米国での信仰の実態について不勉強な点を指摘していると見なされるからだ。真意がさっぱり伝わらないのである。 おそらく、それでは何を読めばよいとか尋ねられる。全く次元の違う質問であり、説明する気力を失わせるに十分と言えよう。 しかも、厄介なことに、この質問に簡単に答えることもできかねる。よくわかっている人など誰もいないし、調査データはあるものの、誤解を引き起こすようなものだらけ。話を続けたところで、面倒なだけで何の意味も無い。 実は、難しく考えなければ、どうということもないのである。・・・ 米国は、キリスト教信仰者の移民達が創った国。 人々はそれを頭に叩き込まされている。 だからこそ、 今でも、 あくまでも"理念"ありきの国。 これだけ。 この風土を理解しさえすれば、底流を読み取れる筈。 誰もが知っていると思っていることでしかないが、問題はこの理解度。 実は、その判定用の絶好の質問がある。但し、これは知識を試すクイズではなく、自問用だから正解は不要であることを念頭に。 "ダーウィン進化論を正しいと思う人の割合は?" おそらく、日本では僅少。そのセンスで米国の数字を見れば、ただならないほど大きいだろう。と言っても、半数に達することは無い。この程度の感覚があればそれで十分。 ここで、"Yes."と答えた人に、追加質問として、「聖書の神がお創りになったとの記述がありますが、それに反した主張をしてかまわないということですか?」と続けて質問をしたら、確固として"Yes."と返って来る割合はどの位だろうか考えて欲しい。 言うまでもないが、そんな数字はあったところで信用できない。 しかし、ここで"Yes."派と"No."派に大きく分かれることになる。 ここらの問題は、堕胎を殺人と考えるか否かという問題と同じことが言えよう。 おわかりになるだろうか。 人々の姿勢は二分されることが。 要するに、この国では、問題はどうあれ、宗教が絡むと必ず"Yes."と"No."の深刻な対立が生まれる状況にある。 この対立軸を理解することが、米国の政治潮流理解に欠かせない。 重要な問題になれば常に信仰の観点での是非が問われることになり、その結果、理念的対立が発生してしまう国なのだ。それはキリスト教 v.s. イスラム教となんらかわるところがなく、深刻な対立を引き起こす可能性は常にある。政治家が取引的に妥協点を探って来たのが現実政治と言ってよかろう。 この論理を理解さえすれば、アメリカの動きを読み取ることができる。 (但し、読み取れると言っても、変化の大まかな方向やドライビングフォースが解かるだけ。スピードは読めないし、変曲点予測もできかねる。偶然、一挙に表面化することが多い。) 問題の根源はキリスト教の三位一体にあろう。進化論を容認することができても、流石に、三位一体の解釈替えはできまい。イエス信仰の土台なのだから。 しかし、進化論を"Yes."とする論理からすれば、それがこの先も続くと見てよいのかは、なんとも言い難し。 神であるが人であり、かつ精霊でもあるという信仰の中核部分だが、聖書に書いてある訳ではないからだ。様々な信仰を受け入れて共存していくべしという主張を受け入れることはできても、この部分に手が入ることはとうてい容認できまい。 しかし、今の流れは、そちらへ進んでいるように思われてもおかしくはあるまい。このまま、この動きを黙認していると大変なことになると危惧する人の数が急速に増加しておかしくなかろう。 信仰篤きイスラム教世界では、このような問題は神学論争だから、法学者世界でのこと。しかも、政祭一致でもあり、一般大衆が心配することではない。ところが、米国はそうはいかない。 政祭分離である上に、王朝史も無く、神権者や神学者集団も存在していなかったから、政治は民意で決めるべしというドグマ同様に、信仰者集団が教義を決定するからだ。従って、両者は分離されていると言っても、個々人で見れば両方に関与しており、不可分。 キリスト教はもともと信仰者の自発的コミュニティ型(教会)であり、そこで民意型運営がなされるとなれば、理念で教義を決める以外に手はなかろう。いくら政祭分離といっても、生活上での戒律的な習慣に、政治施策が触れてくるから、実生活では分離して考えることができる訳がない。従って、政治も理念型にならざるを得ないし、神権が一本化している訳でもないから、政治的理念といっても実は雑炊性のものになりがち。今までは、それを覆い隠すようにしてきたので、理念的に自由を掲げた国家に映って来ただけ。 それが上手くいかなくなれば、理念の雑炊性が露見してしまうから、"Yes."派と"No."派の大分裂は避けがたしになってしまう。それが現在のアメリカ合衆国の姿と言えよう。 そんな流れの変曲点が何時かは自明。・・・ 美辞麗句が得意で、黒人教会信者的な様相を感じさせた市民運動家大統領が生まれた瞬間だ。 繰り返すが、信仰者の社会には必ず生活上での戒律的な"風習"がある。その遵守を生活信条としている層から見れば、オバマ政治はその部分に理念を旗印にしてズカズカと入り込んで来たと映ったに違いあるまい。許し難い存在に映っておかしくなかろう。 三位一体も否定しかねない胡散臭さを感じ取ったことになる。 その一方、美しき理念を語る政治こそ、我々の求める理想の姿と考えた人達も少なくない筈。両者に歩み寄りの余地は存在しえないのは明らか。 この対立の存在を誤魔化すことが難しくなってしまえば、このどちらを選ぶしかなくなってしまう。それが現段階。日本流なら、さしずめ対立回避で問題の先送りを図るが、理念型だから逆に走ってしまう。そのため、個々人は、どちらを選ぶか突きつけられることになる。そうなると、妥協点無しということになり、敗者になればすべてを失いかねないから、勝つためなら理念もなにもなくなるのは自然な流れ。 ここまで来ると、民意を反映させるための制度が機能しなくなるのは時間の問題。 "Yes."派と"No."派双方共に、自由かつ普遍的な選挙制度になっていないということで、民意は自分達にあり、と主張することになるのは必定。やがて、常識は通用しなくなるだろう。 マ、国を突如一枚岩にする方法も有るには有るのだが。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |