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2000.10.1
 
 


反産業技術の風潮…

 最近、江戸時代の「職人と匠」を礼賛する話しを耳にするようになった。文化芸術論なら、多いに結構だが、いい加減な話しも増えている。なかには、伝統工芸のお蔭で、高度な産業技術の成果が上がった、と主張をする人もいる。産業技術を西洋から取り入れたという話しはいくらでもあるが、江戸時代の「職人と匠」のお蔭で、日本の産業技術が発展した証拠など見たことがない。

 ほとんどの日本の伝統工芸はギルド型だった。この仕組みを温存して、産業技術に発展する筈がない。ギルドで生まれる「職人と匠」は、産業における熟練技能工とは根本的に違う。
 江戸の伝統工芸は、技能の公開をせず、丁稚奉公を強いる徒弟制度で支えられていた。一方、産業技術を支える熟練技能工は、組織的な教育を通じて育成される。両者ともに、長期間の訓練が必要な点は、似ているが、仕組みは全く違う。

 伝統工芸が廃れたのは、封建的な仕組みを温存し、社会のニーズなどおかまいなしに、「自分の技法が最高」と独善的な態度をとり続けたからだ。社会の変化を受け入れなければ、見捨てられるのはやむを得まい。
 ところが、「職人と匠」礼賛派は、社会が欧米礼賛に流れたから、伝統工芸が見捨てられたと主張する。社会のせいで廃れたと言いたいらしい。

 産業技術は、比較的楽に移転できることに特徴がある。長年かけて訓練した一握りの専門家しか作れなかった製品を、産業技術は、いとも簡単に作れるようにするのだ。さらに技術を磨いて、人の力ではとうてい作れなかった製品さえ実現する。
 産業界は、優れた新技術をどしどし取り入れることを本分としている訳だ。同じ技能をいつまでも磨くことにこだわる「職人と匠」の世界とは、思想からして異なる。
 「職人と匠」を礼賛する人は、変化や進歩を嫌う。「機械には絶対できない。」とか、「機械生産には人のぬくもりがない。」と執拗に主張する。まさに、ドグマの塊である。

 伝統工芸は常に芸術的センスに優れており、機械で作ったものには、芸術的センス皆無とみなしたいらしい。

 こうした人は、最先端のコンピュータ・カッティングを用いて、新しい合成皮革で作ったスーツを作るデザイナーには、文化的なセンスのかけらも感じないのであろう。


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