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2002.11.21 |
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ノーベル賞に関するコメントの質…民間企業の技術開発担当者がノーベル賞を受賞したので、様々な意見が飛び交っている。なかには、実務家にとっては理解し難い意見もある。しかも、そのような意見が日本の代表的マスコミに掲載されたりする。 ところが、一向に反論が登場しない。というより、その通り、と考える人が多いらしい。ついに、ここまで企業の技術マネジメントが劣悪化したのか、と驚かされる。 「理解し難い意見」の典型例を3つあげておこう。(出典は記載しません。原文を引用せず、要点をまとめました。) (1) ノーベル賞授賞に結びついたアイデアは、本人ではなく、ユーザー側の研究者が生み出したものと思われる。 (2) 素晴らしい発明にもかかわらず、特許でカバーしていない。日本企業は目利き能力が欠けている。 (3) そもそも、日本企業の姿勢は「数撃てば当る」方式の研究開発だ。特許にしても、使う気もないのに、数多く申請する。こうした態度は間違っている。 これを、「三面記事」向けの意見、と見過ごす訳にはいくまい。技術経営に携わる人達は、事実を語るべきではないだろうか。 企業内研究者・エンジニアなら、説明を要しないだろうが、ポイントをまとめておこう。 (1) 日本のプロフェッショナルユーザー(科学者)は挑戦的な研究を避ける。日本企業が新技術を開発しても、例外的プロしか試用しない。欧米の潮流から外れたものには関与しないのである。欧米での未認知技術に、研究費が回わってくることは稀だから、当然である。それでも、一部の企業内研究者は挑戦的な技術開発を「日本で」続けている。(これと対照的なのが、日本の一般消費者だ。新技術登用製品の利用には前向きだ。) 発言者は、プロフェッショナルユーザー(科学者)の質は、企業内技術開発者より高い、と言いたいらしいが、実態は全く逆だ。それは、人の質の問題ではなく、科学振興方針の結果にすぎない。 これは、実務家にとっては常識である。同時に、科学振興方針の批判をしない、というのも常識である。 (2) そもそも、目利き能力が欠けているのは企業ではなく、プロフェッショナルユーザーの方である。新技術活用を図ったのは、海外の研究者達である。 ユーザーが見つかりそうにないのに、徹底的に深耕せよ、と命じる企業マネジメントがいるだろうか。あるいは、発言者は、先端ユーザーより、企業マネジメントの方が目利き能力に長けていると考えるのだろうか。 しかも、この技術は、ビジネスである機器に直接関係しない。機器を使って「どのような条件で測定するか」というハウツー技術なのだ。操作自体も、ユーザーが普通に行うレベルに過ぎない。このような技術を特許化して、機器メーカーが収益を上げる方策は自明といえるだろうか。 この発言者の常識は、企業人とは相当乖離していると言わざるをえまい。 (3) 「数撃てば当る」姿勢が誤り、との見方が根本的におかしい。 日本の特許は先出願方式で、出願内容は自動的に公開される。このため、防衛的出願は不可避といえよう。競争相手の出願内容が公開されたら、即時対応しておかなければ敗退を余儀なくされる。特許申請範囲の周囲で、できる限り対抗出願せざるを得ないのである。「当てる」つもりはなく、競争相手の独占防止の仕掛に過ぎない。申請・公開制度が続く限り、この姿勢は変わるまい。 そもそも、業界に技術の方向性を与えて技術競争をさせるのが、日本の伝統的産業政策である。同じ領域で多数の企業が競争するのだ。このような特許制度下では、膨大な出願が続くのは当然といえよう。 しかし、これこそが日本の熾烈な開発競争の原点であり、80年代の日本の競争力の源でもあった。 一方、米国では、特許は先発明方式である。競争相手が権利を持っているか判然とはしないから、狭い領域で同質の競争はしにくい。折角努力しても、特許に抵触して無駄になる可能性があるからだ。 政府の産業政策に従うなら、日本企業は、米国企業と同じ行動はとれない。これは特許制度上の問題である。(政府からの受注事業を抱える企業が、産業政策に反する動きをとることはない。もちろん、政府とのしがらみが無いグローバル企業には当てはまらない。) 繰り返しになるが、上記は実務家なら常識である。 企業活動の実態を知らない研究者ならまだしも、発言者は、技術マネジメント専門家、あるいは、科学技術ウオッチャーと自負している人達である。 日本の進路を左右しかねない人達が、この程度の理解レベルだ。 企業人は発言を控え続けているが、それでよいのだろうか? 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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