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2004.1.28 |
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学歴詐称問題の本質…議員の学歴詐称問題の推移を見ていて唖然とした。といっても、当該議員の対応の話しではない。詐称するような人なら、どのような態度をとるかは、語る必要などあるまい。 驚かされたのは、この問題に関する論評の方である。 余りに恣意的な主張が登場し、唖然とさせられたのである。 (http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te04012101.html) そもそも、論評のプロが、釈明に対して「どうも腑に落ちない。」と語るのだ。これだけでも驚きである。鋭く問題点を指摘する際の記述とは思えないからだ。どちらかと言えば、情緒的で、胡散臭い表現と言える。 従って、こうした論評は、気をつけて読む必要がある。 実際、じっくり読むと、とてつもない論理が見えてくる。 「米国の大学卒業制度については知らないが、自身の経験からして、」「首をかしげる」、と主張しているのだが、よく考えれば、これは、とんでもない意見である。・・・私の生き方と違う人は信用できない、と臆面もなく述べているのだ。 「学歴詐称は公選法違反」だから、明白な証拠もなく「詐称」とは語れまい。従って、そのような記述も仕方あるまい、と読者に思わせる手法である。 文筆業のプロなら、上手く表現するスキルを持っている筈であり、故意に、こうした表現にしているのである。 この論説者は、先ずは、世間一般感情に訴えたいのである。 感情移入させた上で、この問題を、世間の抜きがたい「学歴信仰」の裏返しだ、と主張する。読者が納得し易いように流れを作っているのである。 世間の抜きがたい「学歴信仰」が、この騒動の深層にあることさえ、読者に納得させれば、目的はほとんど達している。その通りだと思う、というのが一般の感覚だろう。 この論法に、論説者の意図が隠されている。プロが得意な、巧妙な問題すり替え技法で、詐取者の免責を図っているのだ。 「学歴詐称は許されるものではないが、・・・」との語り口が全てを物語っている。 詐称した議員も、世間の見方に仕方なく従ったのだな、と感じさせれば大成功だ。裏をかえせば、免責だ。 学歴信仰を無くすべきと主張したいなら、学歴信仰と戦うつもりが無い議員などいらない、と言うべきだろう。世間の間違った風潮と戦う気概が無い政治家など、即刻切り捨てるべきである。 ・・・自身の経験から判断して、そのような主張をしない論説者の態度は、どうも腑に落ちない。 そもそも「実力主義」が望ましいなら、正しい問題意識を持ち、政策立案能力があり、リーダーシップが発揮できれば十分である。学歴や趣味はどうでもよい。 政策論争で戦った始めての選挙だったが、実態は全く逆だったことが判明したのである。 これが、学歴詐称問題の本質である。 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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