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2004.8.11 



終身雇用はやさしい仕組みか…

 大規模雇用調整を行った企業のスタッフ達と、日本経済再興について話す機会があった。

 経済繁栄には、企業が十分な収益をあげることが不可欠であり、過剰設備、過剰人員、過剰債務の解消は必須要件である。
 長期的に見て、高い経済成長がほぼ約束されているなら、過剰は一部の産業や、一時的現象と見なすことができる。しかし、日本は、上手くいって成長率が2%程度しか期待できない。この状況で、すべての産業で過剰に直面しているのだから、急いで過剰を解消しなければ、低迷を脱することができない。・・・という点では意見が一致していた。

 しかし、具体的な政策の話しになると、すぐに意見は割れる。
 政府による人工的な需要増で、過剰削減の痛みを和らげる方が良いと考える人がいる一方、この施策では、大半の企業が過剰解消に進もうとしなくなるから問題が深刻化する。この政策だけは絶対に駄目だ、と考える人もいる。
 とはいえ、企業の過剰削減に対する姿勢についての現状認識では、皆、余り差がないようだ。多少の赤字でも、雇用削減を回避できるなら、資本を食い潰しても生き延びようとする企業が多いと見ているのだ。

 こんな話しを気楽にできるようになったのも、ようやく、企業内過剰が解消され、黒字運営が軌道に乗ってきたとの実感があるからだ。
 但し、今もって、人員については、過剰感がふっきれていないようだ。

 しかも、この感覚を巡って、意見が割れる。
 多少過剰であっても、モラル上、雇用は維持すべきだ、と考える人と、モラル向上のためには、さらなる削減が望ましいと考える人に分かれるのである。ただ、後者も、今すぐにできる状況にはなく、長期的に進めればよいと見ているようだ。
 後者の意見を支持するのは現場感覚豊かな人が多い。企業内の実情を知れば、雇用維持策など早晩破綻間違いないと考えている訳だ。

 こんな話しをすると、できる限り雇用維持を図る人を、「やさしさ」を重視していると見なし、徹底的な人員削減を図る人達を「合理主義」者と考えがちだ。
 しかし、おそらく逆である。

 雇用維持とは、社員に変身を迫ることを意味している。これは簡単なことではない。昔とは違うのである。
 電電公社時代のような、電話交換手の配置転換型施策はもう通用しないからだ。

 例えば、エンジニアなら、アナログ技術しか知らない人達にデジタル技術を教育して、仕事の転換を要請することになる。レベルゼロから学ぶのだから、能力は、新入社員の方が上である。新入社員と競争して、勝たなければならないのだ。
 生産現場では、セル生産が本格化している。従来型ライン生産を廃止し、1人、あるいは数人で組みたてることで、今まで以上の生産効率を実現するのである。設定された単純作業に注力するだけの人は生き残れない。
 これが「やさしさ」の内実である。伸びれる人に、伸びる機会を提供しているという点では、やさしい、と言えるが、社内における競争はなまやさしいものではない。

 誰でも頑張ればできる、というレベルを越えつつある競争が始まっているのだ。社員を常に鍛え、全社で脱皮を図る「厳しさ」を旨とする会社だからできることではないだろうか。
 このような競争を進めている企業には、明かに「合理主義」が貫かれている。「やさしさ」ではない。

 こうした、人の力を生かして、飛躍を図る経営に対する賞賛の辞はよくわかる。しかし、こうした経営を真似できるできる企業は少ないと思う。合理主義が徹底していない企業が、雇用を維持し、社員の転身を進める方策を繰り広げて成果があがるだろうか。疑問である。

 過剰解消の痛みを和らげるために、政府による人工的な需要増を求めるべきか、という議論と同じ対立が、ここでも発生する。

 理屈では、再教育により、人員過剰を解決できる。だが、普通の会社ではそうはなるまい。単に雇用を維持するだけで終わる可能性が高い。おざなりの教育だけしかできないから、結局のところ、人の転身はできず、企業も脱皮を図れない。
 これはどうみても「やさしさ」ではない。

 このことを理解しているのが、人員削減派である。
 合理的な経営ができない会社が多いのだから、雇用維持は止めようと考える。
 「厳しい」仕組みで雇用を守るより、過剰となった人には会社を退職してもらった方がよいというのだ。収入が減っても、能力に合った仕事があるなら、その方がよいのではないか、という訳だ。
 低収入でも生きれる社会を作った方が、全体が上手く回ると見ているのだ。

 人員削減の方が、マクロで見れば「やさしい」政策かもしれない、と語る実務家も多い。

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