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2004.8.23
時短は本流か?…
週50〜60時間の労働など普通のことだ、との話しを聞くことが多い。実感からいえば、50時間を越える人は、半数弱というところではないだろうか。
従って、労働時間は余り減少していないように考えがちだが、毎月勤労統計調査で見ると、総労働時間は一貫して減少傾向にある。(1)
労働時間の短縮は着々と進んでいるようだ。
少し前は、フランスの労働者が謳歌している週35時間を目標とすべしと考える人も多かった。生活を楽しむために働くという考え方が広まったのである。日本人の「ワーカホリック」体質は異常だ、との指摘に同意する人も多かったから、当然かもしれない。
確かに、日々、仕事に追いまくられ、家庭などかえりみることができない人を見ていれば、そういう気にもなる。
休暇が5週間あり、病欠も別途認められる社会が羨ましく見えるのは当然だろう。
そんな社会を見ていると、労働時間短縮で余暇産業が生まれる、といった主張にものりたくなる。(2)
しかし、忘れてならないのは、このような短い労働時間とは、給与レベルが相当低いことを意味する点だ。インフラコスト負担も増える。
フランス型とは収入の4〜5割減ともいえる。
労働時間の短縮とは、このような方向に進むことになる。
しかし、この流れが時代の主流なのか、疑問を感じる。
このモデルは、古典的な労働感に基づいている。大量生産時代の工場での分業体制の労働シーンを基本にしているといってよいだろう。一律的な労働を前提としているのである。
このモデルが通用したのは、マスプロダクションによる労働生産性向上効果が著しいかったからである。生産性向上にみあっただけの労働時間短縮は十分可能だったのである。
しかし、グローバル化が進めば、先進国がマスプロダクションで優位性を発揮できる根拠は薄くなる。今や、労働時間短縮どころではなく、生き残りに必死の産業も多いのではなかろうか。
競争優位な産業でも、時短といっても、マスプロ活動の部署の話しだろう。他の部署では、名目だけの時短になる可能性が高い。事業がグローバル化すれば、24時間途切れない活動が要求され、これに対応すべく、モバイル機器で、場所や時間に関係なく、いつでも対応せざるを得なくなるからだ。
これが、ビジネスの現実である。
現実を無視した理想論は怖い。プラスに働かずマイナスになることが多い。
経済構造は変わりつつあるのだから、時短の発想も変えるべきだと思う。
今や、知識労働者が大きな価値を生み出す時代である。
知識労働者は魅力的な地域に集まる。そこで、互いに刺激しあいながら働くことで、成果があがり易くなる。
こうした地域では、競争が激しいから、時間が勝負となることが多い。「ワーカホリック」の方が主流であり、一律時短に賛成するとは思えない。
しかし、この人達は大量生産時代の「ワーカホリック」人種とは違う。仕事も好きだが、仕事から解放される一時を一番愛する人達でもあるからだ。これがなければ、仕事も上手くいかないと考えているともいえる。
といっても、仕事以外に割ける時間は限られているから、そのなかで楽しむことを考えるのである。そのため、このニーズに応えるサービス産業が勃興する。24時間働く人がいれば、その人達が楽しむサービスも24時間体制になるだけの話しである。サービス産業も知恵を絞って対応しなければ見放されるから、ここでも労働時間短縮など話題にもなるまい。
知識労働者にとって、労働時間短縮スローガンなどほとんど意味はない。労働時間など、個人の勝手であり、能力と自らの価値観に合うようなスタイルで働きたい人がほとんどだろう。
休暇にしても、1ヶ月山奥に行こうと考える人もいるだろうし、シティホテルで3日間のんびりすごす人もいよう。多様化は進む。
この層にとって、生活の質は、労働時間では計れないし、収入で決まるものでもない。考え方も多様である。
この多様性があるから、創造性が発揮できるともいえる。
米国の西海岸を見ていると、その感を深くする。
シリコンバレーに集まるのは、日本人から見れば拝金主義的な人に映る。成功が金で計られる社会だから、そうなるのは極く自然なことである。皆、自分なりの成功像を目指して、本気で、必死になって働く。しかし、この地域には、ナババレーのような気分転換を図れる場所があることを忘れるべきでない。
一方、サンフランシスコのベイエリアは、ITバブルに合わせて急速に発展した地域である。こちらは、都会の楽しみが揃っている。街並みが美しいだけでなく、美術館やギャラリーが揃っているし、コンサート等イベントも豊富だ。世界の料理も堪能できる。ここには、シリコンバレーとは、全く違う余暇がある。
そして、橋を渡れば、対岸には高級マリンリゾート地帯がある。サウサリートである。高級住宅地だが、ここには巨大産業が存在している。ルーカスフィルムの拠点である。年中働く「ワーカホリック」とは正反対だが、このライフスタイルが独自性発揮の根拠でもある。
こうした状況を見ていると、多様性を容認する社会の力強さを感じる。
日本における時短とは、こうした多様化とは正反対の動きのような気がする。
一律的に管理したい人が多いのではないだろうか。
今の時代、重要なのは、一律時短の強制ではない。
収入が少なくても食べられる仕組みづくりと、健康を害するような長時間労働を防ぐ仕掛けの構築だ。
前者でいえば、生産性が低い業界を変革し、国民全体の生活コストを下げることを急ぐしかあるまい。
今のままで時短を進めれば、生産性をさらに下げることになりかねない。もともとぶる下がって食べている人はさらに楽ができて嬉しいだろうが、大多数の人は生活がより苦しくなるだけのことだ。
その一方で、時短のお蔭で、真摯に働いている人へのサポートが減ることになる。働きづめの人には、さらなる負荷増である。
「ワーカホリック」にならざるを得ない理由は様々だが、一律時短でこれを防ぐことができるとは思えない。状況は悪化する可能性が高い。
理想論に基づく時短提案はそろそろ打ち止めにして欲しい。
--- 参照 ---
(1) http://wwwdbtk.mhlw.go.jp/toukei/kouhyo/data-rou1/jikei/k13.xls と k14.xls
(2) 2002年「休暇制度のあり方と経済社会への影響に関する調査研究委員会報告書(休暇改革は「コロンブスの卵」〜12兆円の経済波及効果と150万人の雇用創出)について」
(経済産業省/国土交通省・財団法人自由時間デザイン協会)
http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0002802/0/020607kyukaseido-report.pdf
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