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2005.1.17 |
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葬儀における意思決定の話…たまたま、ジェンダー論の深江誠子氏(1)の名前を雑誌の目次に見つけたので、「葬儀・墓に自己決定を」(2)という小論を読んでみた。“30歳代の既婚女性の30%が「自分の実家のお墓か、自分専用のお墓や納骨堂に入る」と答え、「夫の実家の墓に入る」の17%を上回った。 ”(3)と聞いていたから、こうしたトピックスに絡む小論と予想したが、外れた。 自らの経験を交えながら、葬儀における女性の地位について、多少語られてはいたが、主体は、葬式業界の「手口(4)」に注意を払え、との話しだった。 そして、お墓を作ることは環境破壊に繋がるから、よく考えよ、と結ばれていた。 確かに葬儀費用がどう形成されており、どのような選択が可能かは、わかりづらい。前もって、自分の葬儀をどうするか、検討しておくとよいと思う。 しかし、正直なところ、葬儀の生前予約をする気にはなれない。 と言っても、何時になるのかわからないから、前もって決めるのは面倒だ、という訳ではないし、好みが上手く言えないからでもない。 後に残った人達に、好きな形式で進めてもらうのも一案、と思うからだ。 人任せは無責任に映るかもしれないが、どの道、誰かが葬儀を管轄することになる。担当側にとってみれば、予め指示があると負担が減る訳でもなかろう。 残った人達が、故人の意志を想定して、儀式を企画する方式も、素敵ではないか。 自分の最後は、自分で意思決定する、との態度は至極当然に見えるが、現実は、そう単純ではない。 特に、珍しい「自分流葬儀」を行なう際は、どのような反応が生まれるか考えておくべきだ。 常識的に守るべき宗教儀礼を無視している、と感じる人は少なくない。自分好みの葬儀を、周囲の人達は喜んで受け入れてくれそうか、十分な配慮が必要だと思う。 これは、周りの「空気」に合わせるのとは、違う。 このような観点から考えると、葬式に関して、生前に必要な意思決定事項とは、葬儀形態や予算ではないと思う。 葬儀を、自分のメッセージを伝える場にしたいか、を決めることが重要なのである。 例えば、明確な目的意識を持って一生を捧げている人や、まだまだやり残し感がある人にとっては、葬儀はまたとない自己主張の場である。この機会を逃すべきでは無かろう。 一方、特段のメッセージなど無いなら、他人まかせでもよいと思う。 とはいえ、最近は、型通りの儀式を避け、自分の好みに合わせた葬儀を行って欲しい、と主張する人が増えているらしい。(5) 思い出を作ろうというより、儀礼化した社会を変えるべし、との思想を伝えようという試みと言えよう。 それはそれなりの意味あるメッセージだと思う。 そうなると、故人の好みを生かしながら、会葬者も温かい気持ちになるような演出が必要となる。これは簡単なことではない。 従って、演出ノウハウを持つ企業に依頼する人が増えるのではないだろうか。(6) --- 参照 --- (1) 現職:平安女学院大学助教授&ジェンダー・女性学研究センター長 「平安女学院大学の肩書きを使うな」と言われたそうだ。(2005年1月13日diary) http://www.galstown.ne.jp/diarys3/r_diarys_h/2498fukae/ (2) 「公評」公評社2004年12月号 (3) http://www.nikkei.co.jp/topic4/kakumei/eimi069525.html (4) http://www.soshisha.com/books/1203.htm (5) http://www.soso-npo.or.jp/keikou/keikou.html (6) http://www.sanctuary-group.co.jp/001-1.html 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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