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2006.5.31 |
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関西の空港史…関西には、空港が並ぶ。関西国際空港(1994年開港)(1)は「国際空港」、大阪国際空港(伊丹空港)(1939年開港)(2)は「国内基幹空港」、神戸空港(2006年開港)(3)は「地方空港」、という位置付けらしい。(4) この他に、遊覧飛行と訓練に使われる八尾空港(1934年開港)(5)まであるから、この地域担当の航空管制官はたまったものではなかろう。 ちなみに、伊丹は国、関空は外部の者にはよくわからぬ組織、神戸空港は市が管理しているようだ。 驚いたことに「地方空港」なのに、その辺りを、アジアの医療技術の向上を狙う先端医療センターにするとの話が流れている。 そして、神戸は海の飛行場だから、伊丹と違い、早朝や夜も稼動するのかと思えば、そうでもない。 一体、どうなっているのかさっぱりわからぬ。 東京にいると、とんでもない進め方に映るが、関西では驚くようなことではないらしい。それが関西体質なのかもしれぬ。 こんなことは、昔からのこと、と言うから、一寸調べてみたら、過去の歴史が記載された2005年に出版した本があった。(6) これによると、日本初の公共飛行場は、堺の大浜海岸にあったという。大阪・四国間の商業路線用である。 その後、1927年、航空法が施行され、木津川尻の船町に大阪飛行場が開港した。上海路線を始めるために作ったらしい。何故かわからぬが、アクセスにはえらく不便で、安全性の点でも劣悪な場所だ。 当然、すぐに移転話がでてくる。 そして、大阪市が大和川尻埋め立て計画を作ったのが、1931年。 早速、2年後に着工。 ところが、神戸実業協会会頭から異議がでて、代案が提示される。神戸から遠すぎるというのである。 実は、この会頭、前から、武庫川で土地の手当てをしており、空港建設を考えていたのである。 それに対して、大阪商工会議所は猛烈に反撥。 両者は対立。それでも、大阪側が優位に立っていたらしい。 そこに、突然、政府が大阪の計画では狭すぎると言い出す。移設はよいとしても、とても国際飛行場にはできないと言うのだ。 そうこうしているうちに、木津川尻の大阪飛行場で濃霧事故発生。 調査の結果、大和川尻に移転しても危険性は同じだから、飛行場の場所を変えるべきとの報告が出る。 国は、大和川尻とは違う場所での国際飛行場計画作成をせかす。 しかし、大阪市は、金がないから、大和川尻以外に選択肢は無いとつっぱねる。 その結果、国は、しかたなく「第2」大阪飛行場を作るしかなくなる。「第2」というのは、陸上機用だけということ。 言うまでもないが、これが、現在の伊丹空港である。 驚くことに、伊丹空港は開港当初すでに狭隘。国際線は福岡と東京で、「第2」大阪飛行場は立ち寄らない状態だったという。 そこで、伊丹の拡張工事が始まる。 一方、大和川尻の「新」大阪飛行場の方は、遅れに遅れて、1939年にようやく埋立地造成が終わる。 そして、1942年、計画断念を決定。 まさに、自滅である。 こうした魑魅魍魎の世界は今も続いているように映る。 伊丹空港は、関空開港で閉鎖の筈だった。それが、地元の要望で残すことになる。そして、現在は縮小ということになっている。 これからも、紆余曲折が続くことだろう。 ともあれ、はっきりしているのは、伊丹がどうなろうと、借金漬けの関空に飛躍など考えられないということ。 そして、新幹線があるのに、わざわざ、梅田から1時間もかかる神戸空港に乗客が流れることも考えにくい。 関西は、空港競争では勝ち目はない。 どうして、自滅の道を選ぶのか、理解に苦しむ。 --- 参照 --- (1) http://www.kansai-airport.or.jp/ (2) http://www.city.kobe.jp/cityoffice/39/030/ (3) http://www.osaka-airport.co.jp/ (4) http://www.mlit.go.jp/koku/02_topics/04_kansai/kansai.html (5) http://www.mlit.go.jp/koku/04_outline/01_kuko/01_haichi/img/037yao.pdf (6) 橋爪紳也「あったかもしれない日本−幻の都市建築史−」紀伊国屋書店 2005年11月 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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