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2007.11.28
 
 


偽者を見抜く舌…

 東京の高級スーパーにも並んでいた「比内地鶏」加工品が実は廃鶏肉利用品だったという。(1)
 高級ブランドでデパートに並ぶ「地鶏のみそ漬け」に使われている肉も、若鶏(ブロイラー)の老舗卸から調達していたそうだ。(2)
 両者ともに、いかにもありそうなことという感じがした。悪徳商法が横行しているという話ではなく、インチキ商品を見抜けないという点に関して。しかも、騙された人の生活レベルは高いに違いない。後者など、3万円の味噌漬けや、8,400円の牛すき鍋御膳が嬉しい人達がお客様なのだ。
 そんな人達が、有難がって食べていたのである。

 廃鶏肉など、誰が考えても、堅くてバサバサだろうが、そこがかえって独特なのでよかったのかも知れない。
 高級料亭モノも、美味しい筈ということで、食べていたに違いない。

 騙される方も騙される方だと思うが、それも致し方なかろう。美味しさの基準が崩れているからだ。

 そう思うのは、だいぶ前のことだが、流行好きで、様々なレストランを出歩く人から、飲茶が美味しいお店を教えてもらったことが強烈な印象として残っているから。たまたま、便利な場所にある店なので、3回入ってしまった。
 驚いたのは、安い訳でもないのに、どの皿も全く同じ味付けで、しかも矢鱈に濃い。結局、美味しいものには、一品たりとも出会わなかった。
 しかし、そんな料理を美味しいと感じる人がいるのだ。それこそ目から鱗。
 味覚が全く違うのである。

 「賞」も当てにならない。
 通り道にケーキ屋さんが開店したので、早速試したことがある。お店は綺麗で、キッチンも素敵。ケーキも美しい。しかも、本場で優勝したという。
 喜んで買ったのだが、味の方はさっぱり。
 ただ、ケーキを無料でつけてくれたし、当たり外れもあろうから、その後数回購入したみたが、どれも今一歩。
 ところが、このお店、若い女性が遠路はるばる買いにくるというので、仰天。

 チョコレートにしても、“手作り”品には確かに美味しいものがある。しかし高いから、滅多に買わない。
 ところが、高価だが、大量生産品より不味くて不出来なものにでくわしたことがある。腹立たしいが、文句を言う筋合いでもないので忘れていたが、これをを喜んで食べる人に出会ったので大いに驚いた。

 昔は、こうした現象を、蓼食う虫も好き好きと考えていたが、どうもそうではないようだ。

 おそらく、薄い味を判断する能力や、微妙な食感の違いを見分ける力を失っている人が増えているのだと思う。そうなれば、店や商品の見栄えとキャッチフレーズを思い浮かべて、“頭で食べる”ことになる。
 ・・・何故こうなるかといえば、料理をしない人が多いから、と睨んでいるのだが。

 実は、開架式の図書館で料理の入門書なるものを一通り眺めていて、ふと思い当たったのである。
 良書は結構多い。しかし、それは本気で料理をしようと覚悟を決めた人を対象にしたもの。団塊の世代を対象としているような、初めての料理に挑戦する人達向けの本では、良い本が見当たらないのだ。
 入門書だから、それなりに工夫がされているが、おしなべて、“頭で食べる”ことを推奨するものになっている。
 どういうことかといえば、内容が真面目そのもので、知識だらけ。道具立てや、調理の技、原材料見立てがわかり易く記載されているだけ。コレ、一見、入門篇としてはよさそうに思うが、よく考えれば逆。例えば、以下のような疑問がすぐに浮かぶが、答えは自明ではないからだ。
  ・道具が違えば、味は大きく変わるのか?
  ・プロセスを少し変えると、不味くて食べられないのか?
  ・安物と推奨材料とはどの位味がちがうのか?

 要するに、“頭で食べる”ことをお勧めしているのである。あるいは、それしか書けない人に書かせているのかも知れないが。
 これが、風潮のようだが、残念なことだ。
 この層が料理を避けるのは、自分で作った料理の美味しさが実感できないからと睨んでいるのだが、それは調理が苦手だからではない。食の経験が偏っているから、何が美味しいのかよくわからないのだ。この問題を解決する手立てが書いてない本は入門書にならないということ。

 と言っても、なんのことやらわからないかも知れぬ。
 蕎麦の喉越しのよさが嬉しい人に、100%国産蕎麦粉だけで打つ方法を解説しても意味は薄いと言ったらよいだろうか。先ずは、100%の蕎麦の良さを体感させない限り、わかる訳がないのである。
 簡単に言えば、どのように「味」の評価訓練を行うべきかが記載されていない本は、役にたつまいということ。
 「味」の評価ができないから、偽者を美味しく感じてしまうのだが、それを後押しするようなものが多すぎる。

 例えば、枝豆など、畑の採りたてを茹でれば絶品。しかし、経験していなければわかるまい。
 産地や品種の薀蓄を並べた商品でも、時間が経っているものは、どう茹でようが、冷凍モノと大差はない。と言うより、優れた冷凍品の方が余程美味しいのである。
 そんなことさえ知らない人が多数であるのが実情。

 色が変わりつつある葉をつけたままの、高価な有機農法の大根を、“これが美味しいのよ”と喜んで買う人を見かけたこともある。高価なので売れ残っている古い商品を、値引き無しで購入する感覚は理解を超える。
 根だけ食べるなら、葉はできる限り早く取るのが当たり前。葉に栄養が回るから、根はカスカスになり美味しくなくなるからだ。逆に、葉を取ってあれば、日数がたっても煮込めば大根は美味しい。野菜とは、上手く乾燥させれば、かえって美味しさが濃縮されるものだからだ。上質のドライトマトをオリーブオイルに漬けた一皿の喜びは、ワインを傾ける人ならおわかりの筈。萎びた茄子でも、料理によっては、かえって美味しくなるものなのだ。しかし、食べたことがなければ、そんなことはわかるまい。
 “頭で食べる”から、生野菜が美味しいと思ってしまうのである。美味しいのは、実は野菜ではなく、ドレッシングである。従って、野菜臭は少ないほどよいのだ。これは野菜本来の美味しさを忘れる道だが、逆に考える人が多い。

 こんなつまらぬ話をするのは、「味」の評価訓練に特別なことが必要な訳ではないことをご理解いただきたいからである。
 心のこもった家庭料理を味わっていれば、自然に身につく類のスキルなのだ。
 ところが、家庭料理が安直化したため、このスキルを磨く必要がでてきたに過ぎない。

 --- 参照 ---
(1)  “但馬牛みそ漬けも偽装 船場吉兆” [2007.11.9]
  http://sankei.jp.msn.com/life/environment/071109/env0711091650000-n1.htm
(2)  「当初から大半は廃鶏 比内地鶏偽装の商品」 [2007.10.25]
  http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071025/trd0710251237010-n1.htm
(鶏手羽のイラスト) (C) Hitoshi Nomura “NOM's FOODS iLLUSTRATED” http://homepage1.nifty.com/NOM/index.htm


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