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2010.5.13 |
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動物の弔い挙動のお話…“野生チンパンジーの母親は、子供が死んでミイラになってもそばに置いて生前とほぼ同じように接する”(1)という話が流れた。連休を前にして、注目を浴びるのには絶好な話題ということで、ほとんどのメディアでカバーされているようだ。さすが霊長類。人間そっくりという感じの解釈が多そう。 そういえば、大分昔のことだが、手話教育を施したゴリラKokoには死生観があったという話もあった。(2)もう大方の人はお忘れだろうが。 質問: Where do gorillas go when they die? Kokoの手話での答: Comfortable hole bye. 小生は、こうした現象は、ヒトの傍で生活する動物が人間の意識に感化されただけと見ている。始終観察するということは、相手からも見られていることを意味する。 温泉に入る猿の習慣など典型だろう。ヒトにしても、注意深く動物の行動を眺め真似に至ったことは少ないない筈。どうして、そんな当たり前のことを前提としないのか不思議である。 もともとも、動物の弔いという点だけ注目するなら、そんなシーンは驚く話ではない。象は死期を悟ると群れから離れることが多いらいが、そうでない場合は臨終を前にした個体に皆よりそうように集まるという。体が倒れると草をかけたりするそうだ。 社会を作っている動物なら、そんなシーンは探せば必ず出てくるのは当たり前である。どんな死生観だろうが、群れの成員に異常があればなんらかの対応をするのは当たり前の話である。その行為をどう解釈するかは好き好きというだけのこと。 この手の話は雑談ネタとして飛び交うことが多いが、短絡思考に陥り易いので注意した方がよい。 例えば、こんは話だとどうかな。 活魚料理のお店で、板前さんが水槽から一匹取り出してさばき始めた。そうすると、残った魚が一斉に俎板の方向向いてガラスを通してじっと眺め始めた。異様。 コレ、小生の実体験。 これではなにを言いたいかわからないか。 野生動物は食べていくのに必死と書くヒトがいるがそんなものか、お考えになった方がよい。 “必死”とみなす根拠など皆無である。情報が豊富なら、勝手気ままに生活している輩もいることがわかるのだが、それがなければ現状をそのまま受け入れるでkのこと。 動物は、どんな状況だろうが、普通に暮らしているだけだなのでは。ただ、食べるものに不自由しなくなれば、変わる。ヒト同様に文化的活動が目立つのは当たり前。余裕ができるから、関心の対象範囲が広がって当然。 腑に落ちないというなら、リスの仕草を一度ご覧になるとよかろう。 [YouTube]→ “Amazing Squirrel Fights off Crows - Protects Dead Friend's Body” (2010年4月19日) --- 参照 --- (1) 「ミイラ化した子供に寄り添う母 チンパンジーの愛情 京大チームが発見」 産経新聞 [2010.4.27] http://sankei.jp.msn.com/science/science/100427/scn1004270047000-n1.htm (2) Heidi Bensen: “Koko Interview” http://www.freecitymedia.com/BigKokoFrameSet.html 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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