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2010.10.25 |
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多文化国家について考えてみた…〜 多文化主義とはご都合主義の隠れ蓑と見た方がよい。 〜「多文化主義は失敗に終わった。」とのメルケル独首相の発言が世界中のメディアで報道され、議論が続いている。(1) ドイツには西欧で最多と言われているイスラム教徒が住んでおり、そのため、閉鎖的なイスラムコミュニティがあちこちにできてしまったと言われている。そこは、原理主義運動の温床となっているとの指摘もあるようだが、だから問題が大きくなったという訳でもなさそうである。要は、失業者だらけなので福祉予算を大幅に割かれおり、経済成長鈍化のなかでこれではたまらぬということで、急速に不快感が高まったという背景がありそうだ。 今や、国中に反移民感情が蔓延していそうで、こうでも発言しない限り選挙で大敗北しかねない状況に追い込まれたというのが一般的な解釈である。 文化が全く異なる移民が、それなりの割合に達すれば急速に摩擦が生まれるのは当たり前。しかし、経済発展のためには労働者の絶対数が必要である。労働力不足に直面すれば、移民政策は不可避となる。 一番の問題は、ご都合主義的な移民労働力活用で発生する問題を、「多文化主義」なるイデオロギーで覆い隠してきたことにあろう。 小生は多文化主義が成り立つ国は例外的存在と見ている。何千年もの人類の歴史で、そんな例を見れば明らかだし、それぞれの文化を防衛するためのものが国境ともいえるからだ。ちなみに、多文化主義で有名なのは“元”である。税金さえ払えば独自文化が認められ、拒絶すれば皆殺しという、単純にして明快な統治理論。これが、多文化主義の本質では。 共産主義と同じで、多文化主義とは頭のなかで作り上げたユートピア幻想にすぎまい。それを知りながら追求するのは、なんらかの目的があるか、宗教的陶酔に嵌ってしまったのどちらかではないか。まあ、たいていは金か権力に絡むことになるが。 それでも、例外的にどうにか上手くいく国もあるかも知れない。先進国では米国、発展途上国ではインド。もちろんその副作用は小さなものではないし、世界連邦でも作ろうというのなら別だが、国民国家としては矛盾を含んでいる考え方だから、ある日突然崩れる可能性もあろう。 欧州の場合は、多文化主義を掲げない限り、武力統一ではないEU構想は即座に頓挫してしまうから、これを是とするしかない訳で、ご都合主義で取り入れたようなもの。今更、捨てる訳にもいくまい。 ドイツの場合、こうした人類の歴史に目をつむり、実利で移民政策を進めたのである。その結果、当然発生する現象に直面した訳である。今になって、移民はドイツ語を学ぶべしなどと言い出すのは笑止千万。 ただ、ゲルマン純血主義の復活の流れを感じる人がいたり、イスラムとの共存は無理という主張が表に出てくることを百も承知での上での政治家の発言だから、十分注意してかかったほうがよいだろう。 ちなみに、小生は、多文化主義について、こう考えている・・・。 〜 米国は本気で多文化国家を追求するしかなかろう。 〜 先ず米国だが、この国は多文化国家化するしかなさそうである。 それはもともと移民の国で、事実上、人種の坩堝化しているからではない。海外出身者の頭脳労働者なくしては科学技術で先端を走れないし、低賃金の単純労働を移民に頼らざるをえないという現実を重視しているからでもない。 着目すべきは家族関係。この国では、ついにホモセクシュアルの家庭まで認知されるに至り、紐帯感覚が変質してしまったのは間違いなかろう。親やコミュニティが守ってきた慣習を子供が引き継ぐか否かは、個人の自由に委ねられるということ。 こういった社会では、とんでもなく異質な宗教的戒律を信奉しようが、他の人に干渉しない限りは容認せざるを得ない。個人の自由を重視すれば、究極のところそうならざるを得ないのである。 従って、原理的に単一文化や平穏な社会を作ることはできまい。 例えば、堕胎を殺人と見なす人にとっては、殺人者を野放しにしていることは許しがたい訳で、ただならぬ揉め事になるのは致し方ない。・・・その手の議論に費やれる労力は並大抵のものではなかろう。ワシントンの政治が年中文化的対立抗争に明け暮れているように見えるのは、この辺りに原因があるのではなかろうか。なにせ、こうした議論のために政党が大宣伝をくり広げるのだから、費用はいくらあっても足りない。放送局も政党色を強めるしかなくなる。 移民問題になると、こうした文化的抗争と複雑に絡むのでさらに厄介そのもの。そもそも、南の国境を越せば、そこは絶対貧困地帯。米国と繋がっていそうな麻薬シンジケートが支配する無法の地。万里の長城で不法移民を防ぎきれる訳がなかろう。そんなことをするより、移民の力で経済発展をはかりさらなる大国化をというのが、米国型資本主義だろうが、(2)そうことが運ぶとは限らない。 こんな状況を考えると、米国では、自由なき平穏な社会生活より、混乱しても自由な世界を志向している人だらけと見てよいのではないか。体質的には、日本とは正反対では。 こんな社会では、勝手し放題になりかねない訳で、まかり間違えば無秩序社会化。従って、それを防ぐためには「力」は不可欠となろう。 逆に言えば、「力」がある限り、米国は、自己流の多文化主義を貫くことになろう。 〜 発展途上国での多文化とは独裁国家ということ。 〜 一方、発展途上国ではどういうことになるか。 もともと、まともに発展できないのは、政情不安定であり、ルールなどあってなきの状態だから。 最近のキルギスタン情勢をみれば、発展途上国の政治とはどういうものかすぐに理解できよう。ロシアのメドベージェフ大統領の一言が的確・・・。 「if Kyrgyzstan's election Sunday produces the first parliamentary republic in the region, it would be a “catastrophe.”」(3) かつてのイラクなど典型。 フセイン独裁だからこその国内安定。シーア派、スンニ派、クルド民族を力で支配したから、地域大国の地位にのし上がれたのである。それを、米国は独裁政治体制を破壊し、普通選挙まで持ち込んだのだから、大混乱必至。隣国イランと組むシーア派の国になるか、はたまたバラバラになるかしかなかろう。政権発足さえ容易ではないようだが、米軍の力が弱くなれば、クーデターでも発生しかねない国なのでは。 だいたい、宗教で色分けした連邦制も成り立つのか疑問。宗派内でのセクト対立は熾烈だし、損得勘定で地域の部族が動く。理屈の世界ではないから、先など読めるものではなかろう。こういう社会での普通選挙にどんな意味があるのだろう。多文化国家などとんだ幻想では。 国内が平穏な“大国”になるには、一つの民族文化に根ざす組織による独裁しかないのが現実である。 そんなことは、中国を見れば一目瞭然。 共産主義というイデオロギーで覆われているから誤解する人が多いが、元(蒙古族)や清(満州族)の再興を許さず、異民族を支配する漢民族の大国である。当然ながら、いつ民族紛争が勃発してもおかしくない訳で、それを抑えるためには軍事独裁しかありえない。もともと毛沢東路線とは、ロシア民族による大国化を目指したスターリン路線を踏襲したもの。 〜 インドは多文化国家だが、独裁国でなく、例外的。 〜 ただ、発展途上国だと多文化国家樹立は無理と言うのはドグマに映るかも。大国であるにもかかわらず、インドは事実上多文化国家だからだ。普通選挙も成り立っているし、独裁国ではない。 (中国共産党は、何が課題で、どのような路線対立があるか、次世代のリーダーは何を主張しており、どういう理由で選ばれたのか、外部には何の情報も漏らさない。これが独裁維持の鉄則。) しかし、民主主義の制度を採用していても、素人には、インド政治の実態は極めて分りにくい。巨大人口のイスラム教徒を抱えているから、世俗主義しかありえないが、政教完全分離でもなさそうで、どうしてそんなことが可能なのか不思議な感じだ。 それに、言語がバラバラということは、欧州同様の絶え間ない紛争の歴史を示唆している。事実上の共通言語は英語だ。英国の分割統治に乗せられた面もありそうだが、もともと地域の主流言語が無かったのだろうから、人的流動性や交易も極めて不活発だったことは間違いあるまい。EUより、共通基盤は脆弱そのもの。にもかかわらず、国家として存続できるのである。 唯一考えられる理由は、まとまれば「強大国インド」が実現できるという点。海外支配から逃れるには、それが最良の方法ということだったのかも。 (話は跳ぶが、大国然とした動きをすることが、この国の最優先事項だとすると、ネパールのマオイストの動きが心配になる。稚拙な動きで、大国間の紛争勃発だけはご勘弁願いたいものだ。) つまり、この国は、多文化主義を信奉している訳ではなく、宗主国から独立するために便宜的に採用したとはいえまいか。他の国では難しいが、この国ではたまたまそんなことができる条件が揃っていたのでは。それは、カースト制度が存続していたから。・・・多文化ということで、互いの間に仕切りをつくるのは、カースト制度とたいした違いはないのでは。階級間は互いに相容れない状態だが、だからといって生活はそれでなんとかなる。それと同じように、多文化を容認すれば何の問題もなかろう。 身分制度は、普通選挙制度と両立しないものだが、多文化主義を標榜することで、それを可能にしたと見ることもできる。身分制撤廃の動きを封じる役割を、多文化主義が担っているとも言えるかも知れぬ。 そんなことで社会が安定しているのは、多文化主義と身分階層による峻別主義が混交しているからではないか。各階層が、勝手に独自の経済活動を進めていれば、それは多文化主義とたいしてかわるまい。つまりミクロでは、国や政治を無視した、レッセフェールの経済活動が行われているということ。ただ、そうだとしたら、財産や経済活動に関する規律を、全国レベルで整えることことはほとんど夢。 そんな国のような気がするのだが、ともあれ、インドの多文化主義は極めて特殊な例と言ってよいのでは。 大国に飲み込まれることを拒否するためにスイスは多文化国家の道を選びハリネズミ化で臨んだが、インドは同じ道だが虎化に邁進したということかな。 〜 フランスは理念上「多文化主義」を捨てる訳にはいくまい。 〜 というところで、発展途上国から先進国へ目を移そう。 インドはカーストという厳然たる制度があるが、先進国でも実態としては階級が残っている国もある。フランスである。ただ、“共和国”であり、世俗主義を掲げている。つまり、個人主義としての“自由”を至極大切にしている国といえよう。 移民との摩擦が騒がれるが、それはこの観点で見ないと間違うのではないか。なにせ、この国では暴動など驚くようなものではないのである。年金問題でも発生する位なのだから。 “自由”を旗印に掲げる限り、この国では多文化主義を捨てることはできまい。イスラム教徒のスカーフ着用禁止にしても、イスラム文化の浸透を快く思わないというのではなく、イスラム系コミュニティ内での女性への強要が疑われるから故の人権施策という側面の方が強そうである。 この国は、実質的には階級社会であり、そこに移民階級が新たに加わること自体に違和感は無いのでは。もちろん、階級間での摩擦は生じるが。 とはいえ、ルールを全く無視する民族に対しては、同じような姿勢で臨む訳にはいかなかろう。ロマはどの国でも、迫害を受ける流浪の民であり、人権重視のフランスでもそう簡単に対処はできまい。(4) フランス以上に、理念的に「多文化主義」を追求したのは、おそらくオランダ。 宗教的に迫害されている人達を受け入れるべしという意向が強い国である。しかし、その実態は、不足する労働力を埋めるために、トルコ人やモロッコ人の流入を促進させたにすぎない。このため矛盾が生じる。移民にとっては、異端者を救うなどもっての他。従って、異端者を優遇するようなリベラリズムを嫌悪することになろう。移民政策は理念と相反するものに落ち込んでしまうのである。 今や、国内に治外法権の異端者を排除する地区ができあがってしまった。こうなると現実論に立ち返るしかなかろう。 要は、大国を目指すなら、帝国主義時代ならいざしらず、労働力確保のために多文化路線を採用するしかない。 フランスはその舵取りに苦労しながらなんとか動いている状況だろう。混乱はあるが成り立つ可能性もある。 しかし、小国が同じような方針を採用すれば、そのうちどうにもならなくなるのは自明。労働力不足対応のための移民の人口がただならぬ割合に達してしまえば、国家そのものの存在意義を失うことにもなりかねないからだ。 スウェーデンで多文化主義が破綻し始めたのも同じようなものでは。迫害されている世界の人々を受け入れたのは事実だが、大半の移住労働者はその範疇には入らない。移住者の塊が生まれ、その内部では、異質分子迫害が始まってしまえば、当初の理念とは全く逆の流れを作ってしまったことになり、その点では大失敗だったのは歴然としているからだ。オランダと同じ。 〜 ドイツは多文化主義を振りまくことでずいぶん得をした。 〜 さて、ここで冒頭のドイツの話に戻ろう。 小生は、ドイツはフランスとは状況がかなり違うと思う。それは、ドイツは日本によく似て、子息の教育に熱心だから。実につまらぬ話にきこえるだろうが、ここが肝心。子供に教育という形で遺産を残そうとしているのは間違いなく、それを家族の絆と考えているのでは。そう言えばおわかりだと思うが、その究極がユダヤ人の姿勢。 つまり、子供に残そうとするモノは教育だけで留まっている筈はなく、親が受け継いできた文化を、すべからく子供に伝えることを旨としているに違いない。ユダヤ人なら戒律だが、日本人は墓守役か。おそらく、個人主義を貫く米国にはそんな習慣はなかろう。 多文化主義国家をつくるには、異質な文化に寛容であるべしというレベルでは無理だろう。米国やフランスのように、自由を重視する国は異質分子の存在に耐えられるかも知れないが、ドイツや日本が忍耐力を発揮できるかは大いに疑問。 こんな見方だと、メルケル首相の発言とは、正直に実態を語ったにすぎないとも言えよう。 だが、それなら多文化主義を採用してドイツが大損したかといえば、おそらく逆。その見返りはどう見ても巨大。 そんなことは日本を見てもわかろう。日本経済は自動車産業に支えられてきたが、俗に言う3K職場を支えたのは、南米からの出稼ぎ労働者である。その力なくしては、産業はへばっていたのでは。 都会のサービス業も同じこと。よく働いてくれるアジア人なくしては成り立たないのが現実。 ドイツはそんな動きを国全体で進めたのだ。どうしても必要だが、低付加価値な労働を移民に回すことで、マクロで労働の質を上げ、競争力を着実に向上させたのである。 それだけではない。移民容認とは、人の移動を促進する政策でもある。この結果、ユーロ圏内の発展途上国との貿易もし易くなったに違いない。ドイツの経済の柱は輸出であり、この効果は無視できまい。しかも、欧州共通通貨化で通貨危機のリスクを減らし、本来なら暴騰しておかしくないマルクも低価に抑えることに成功した。こんなことが可能になったのも、欧州共通の価値観として多文化主義を打ち出したらこそ。 〜 さて、日本は。 〜 ここまでご説明すればおわかりかと思うが、心配なのは日本政府の姿勢。 小生には、何をしたいのかさっぱりわからない。 --- 参照 --- (1) “Merkel says German multicultural society has failed” BBC [17 October 2010] http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-11559451 James Wilson:“Multicultural attempts ‘failed’, claims Merkel” FT [October 17 2010] http://www.ft.com/cms/s/0/2ea3d932-da1b-11df-bdd7-00144feabdc0.html (2) “Mayor Bloomberg on the Partnership for a New American Economy” http://www.renewoureconomy.org/ (3) BAKTYBEK BESHIMOV+SAM PATTEN: “Kyrgyzstan's Hopes, and Fears” WSJ [OCTOBER 4, 2010] http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704380504575530940163875392.html (4) “A long road Europe’s Romanies have a mostly horrible time. But they are thriving in America” Economist [Sep 16th 2010] http://www.economist.com/node/17043366 侏儒の言葉の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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