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2010.10.28
 
 

医療データは解釈が難しい。…

日本の病院が膨大な数のベットを抱えているのは事実。
相対比率[ドイツ=1]
比較項目 日本 米国
人口当たり
総病床数
1.7 0.4
平均在院期間 3.4 0.6
 よく知られていることだが、日本では、人口当たりの病床数が驚くほど多い。患者をできるだけ病院で面倒を見るという文化が定着しているからでもあるが、それを考慮しても多い。右表の比較でわかるが、これも、基準値を政策的に下げてようやくここまで来たという数字である。
 病院はベッド稼働率を上げるために入院期間を延ばそうとするし、患者は患者で、退院して厄介な療養を自費負担するより、保険でカバーしてもらえるなら入院を続けたいと考える結果でもあろうが、そんな単純な問題で片付けるのは危険である。

 ともあれ、この数字はあんまりだということで、保険診療の点数制度や、病床認可権を用いて病床数減少が図られているのが現状。ご存知DPC(入院費包括支払制度)の強化もその一つ。出来高払(parts and labor)では無駄に費用を加算することになりがちだから、経済原理を導入しようとという、まあ常識的には妥当な路線。
 だが、この施策の結果、病院経営が良くなり、医療の質も上がるという保証はない。ここが日本の医療問題の難しいところではないか。

病院がベットだらけな理由はそう単純なものではなかろう。
 この問題の本質は日本の医療文化だと思う。
 効率的で質の高い医療を“合理的”に提供できるように文化を変えるには、DPCから始めるのが最善ということにならよいのだが、単にベッド数減少に的を絞った政策だったりすると、副作用が大きくマクロではかえって非効率になったりしかねないかも。
 そんなことは百も承知での決断ならよいが、多少心配である。医療分野は、概して検討不十分で走ることになりがちのようだから気になる。

相対比率[ドイツ=1]
比較項目 日本 米国
急性期
平均在院期間
1.8 0.7
 そういう観点で一番気になる数字が、急性期の平均在院期間。矢鱈に長いが、どうしてこうなるのか、じっくり考えておく必要があるのではないか。
[日本には、急性期病床(acut ecare hospital bed)なる概念はない。日本でこれに該当するのが“一般病床”とされているだけ。]
 ただ、じっくりと言っても、そう難しいというものではない。こうなる理由は素人でも色々考えるつくからだ。以下のような理由を並べること位は、誰でもできるのではないか。さらに、事情通にきけば、これ以外にも出てくるに違いないし、誤解も指摘されるかも。

■最新医療技術の普及が遅れている。■
大手術をすれば1ヶ月弱の入院となる。しかし、先端医療で代替すれば、数日で済むものも少なくない。もちろん、新方式にはリスクもあるが、医療とは失敗も重ねながら洗練されていくもの。こうした方向に進むには、病院としては、それなりの投資が必要だし、新たな専門教育とすきる研修が必要となる。しかし、それは医療費を大幅に増やすもとでもある。当たり前だが、お金と時間をかけて、収入が減るような経営は成り立たない。医療費財源不足の状態であるから、これを積極的に進めることはできまい。
■日本では治療完了時点を必要以上後送りしている。■
新しい治療でも、日米の違いは大きい。日本で2泊3日の治療が、米国では日帰りが当たり前だったりする。問題が発生すると、大騒ぎになるから常にこうした対応になる。医療文化が根本的に違うから、この是正は極めて難しい。専門医はプロフェッションナルとして、自分のスキルを生かせる領域での仕事が完了すれば治療は終了である。その後の療養は、別の担当となる訳だ。たいした問題もなければ、病院外施設に移ってもらうことになる。入院している意味などないからだ。常識で考えればわかるが、入所先は病院である必要もない。だが、そんなサービスは日本では不可能。
■末期延命“医療”が広範に行われている。■
グレーでわかりにくい問題もある。死期の迫った人の入院。日本では、老人介護施設で息を引きとる人は驚くほど少ない。人生最後の時を迎えるのは、施設ではなく病院なのである。(施設内での死亡となると、山のような手続きと監査が行われるので避けようとしているのだと睨んでいるのだが。) 医師も、治療といっても、明らかに死期が迫っている患者の場合はどうすべきか迷うところだろう。しかし、ともかく最善の仕事で、延命を図るしかないのである。植物人間状態の場合は、専門医師を必要とする治療ではないから、別施設に移設というのが米国流だが、前項とおなじで、そんな場所はない。 病院のベットでの延命治療を断る遺言をのこしていない限り、医師としても治療を続けるしかなかろう。
■介護病床としても使われている。■
減ったとはいえ、地方はコネ社会であるから、治療が必要な患者とみなされて入院している例はまだ残っていそうだ。
■患者が長期入院を望む。■
退院してもすぐに通常の生活ができる訳ではないのが普通で、できれば回復まで病院にいたいと考える患者は少なくない。実際、退院すると生活困難が予想される場合もあろう。医師もそれを知っていたら、退院通告は心理的に辛いものがあろう。そして、一つでも例外ができると、そのうちそれが知られてしまい、一般化せざるを得なくなるだろう。こうした日本の風習がなくなることはなかろう。

 ところが、このように問題を並べたてることはできても、どれがどの程度影響を与えているのかはかはわからないのである。従って、素人に、政策提言ができる訳がない。
 それなら、分析が得意な人に頼めば事態が見えると考え勝ち。・・・これが曲者。
 多変量解析でも行って推論という手が使われがちだからだ。これが危険千万。結論を説明するための手法には良いのだが、問題点を浮かび上がらせるために使うと間違った結論を導き出す可能性がとてつもなく高いからである。こんな発言をすると、非科学的でとんでもないことを言うように映るかも知れぬが、データがそんな分析に耐えるようなものでないからいたし方ないのだ。
 一番の問題は、医療関係で入手可能なデータは、意味ありそうなセグメンテーションで切り分けることが難しい点にある。全体が一様でバラツキがあるという集団なら分析すれば状況が把握できるが、全く性向が違う集団をゴチャまぜにしたのでは、いくら分析したところで本質は見えてこない。医療データはどうも、そうなっている可能性の方が高い。 マクロの数字で結論を出すと間違う恐れお濃厚なのだ。

[都道府県別の状況把握は、管理単位だから必ずデータはあがってくるが、欲しいセグメントデータがあるのでは。例えば、回復期リハビリテーションのベット数密度(2)だが、本気で全国一律にする気なのだろうか。小生は、土地価格の高い都市部に開設せず、移送の仕組みを作り、温泉療養でも兼ねた施設をつくって、都会人を受け入れた方が合理的な気がするが。専門看護人を海外から呼べばコストパフォーマンスは高い筈。・・・この手の“規制緩和”は、一番嫌われるらしい。]

統計データにこだわると間違った見方をしかねないのでは。
 どの程度ゴチャゴチャなのかを実感したかったら、平成19年度の一人当たり老人医療費の地域間の違いを見るとよい。(1)
  札幌市117.2万円・・・浜松市74.7万円
  北海道洞爺湖町118.1万円・・・岩手県九戸村52.4万円

 普通、これだけ差がある場合、全く性格が違うセグメントがあると疑うものである。しかも、都会と田舎というのでもない。データを見ると雪と氷に閉ざされる故という話でもなさそうである。しかし、セグメント分析できそうなデータ構造とは言いがたいから、数値解析してもわからないかも。この理由を議論したかったら、データの裏づけ無しに、強引に仮説を立てるしかなさそうである。これでは政策立案などとてもできない。従って、本気で考えたいなら、既存組織を無視し、フィールドワークで実態を解明するしかない。しかし、日本の政治風土ではそんなことはできまい。

 だいたい、病院経営は赤字とされながら、土地単価が高い都会の一等地に美麗な病院があったりする社会だ。一体どうなっているのか。知る人ぞ知るの世界であることは間違いないのである。
 その昔、大学病院の経営改革を進めたいという企業再建のプロと話したことを思い出してしまった。・・・数字は揃っているのだが、セグメンテーションができないので、管理不可能というのだ。管理可能なのは、非医療のサポート活動だけだとか。
 未だにその状態とは思えないが、日本の医療現場はもともとゴチャ混ぜなのである。

 医療データそのものに、全く性格の違うセグメントが入っている可能性を指摘したが、これは実は医療分野に留まらない。家庭に関する統計の数値も同じような傾向を強めつつある。例えば、多世代同居世帯といっても、その生活レベルは天と地状態になりつつある。一方、別世帯で別会計になっていても、同居世帯と生活実態がたいしてかわらない場合も少なくない。
 もっと根源に迫ると、収入額で実生活レベルを推定することが難しくなったことがあげられよう。貧困レベルの収入であっても、それが貧困層どころか、実際は富裕層だったりするようになってしまったからである。他に統計数字がないから、しかたがなくそれを使っているのが実情だろう。

医療文化を変えるには、国民教育が必要なのは明らか。
相対比率[ドイツ=1]
比較項目 日本 米国
人口当たり
医師数
0.6 0.7
医師当たり
外来診察回数
3.8 0.7
 小生は、日本の一番の問題は、医療サービス密度の薄さと見ている。医師の診察回数の多さは特筆物である。ご存知3分間診療の話だ。
 むやみに患者を増やしてきた結果と言えるだろう。ただ、それが感染症悪化を防ぐ絶大な効果を生んだことは間違いない。栄養状態の向上と、3分間診療の結果、短期間で長寿命が実現できたということ。コストパフォーマンスから見れば、秀逸と評価してよいのでは。

 しかし、そんな時代は終わったのに、それを変えることができないのが問題なのである。今や、医療サービスの大半は医師のプロフェッショナルなスキルが必要とは言い難い状況。インフルエンザを除けば、感染症の重篤化が稀になってしまったからである。
 圧巻は健康診断。データを見て、“お酒を控えて、もう少し運動をした方がよいですよ”といったアドバイスしかできないのが普通。こんなことは、コンピュータで印刷するだけで十分である。
 こんなことをしていれば、専門的な高度なスキルが必要な医療サービス分野は質・量ともに手薄にならざるを得まい。
 今後、団塊の世代が老齢化し、重篤な疾病が多発する。今のスピードでそれに対処可能かはなはだ疑問である。

 全面的に枠組みを変えるべきだと思うが、日本はそういうことが大の苦手だから、小出しの改定で徐々にということになる。だが、それが目論んだ方向に進む保証はない。ここが危険なところ。

 話が長くなってしまった。
 何が言いたいかおわかりだろうか。
 入手可能なデータだけで分析したのでは、実態はわからないし、そんな見方で物事に対処すると後でえらい目に合う時代に入っているということ。

 --- 参照 ---
(1) http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/hoken/iryomap/07/18.html
(2) 「都道府県別病床数:対10万人(2010年9月30日現在)」 全国回復期リハビリテーション病棟連絡協議会
   http://www.rehabili.jp/data/data_img/201010/5%20todohuken%20betu%20byoshosu%20tai%2010man.pdf
(票のデータ元) 「医療分野についての国際比較(2007年)」
   http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryouhoken/iryouhoken11/index.html


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