■■■ 北斎と広重からの学び 2013.1.21 ■■■

   天空を見せる

版画で空を表現するのは結構難しい。上方の縁にボカシを入れることで、光の調子を感じさせ、季節感を含めた天候や時間感覚を伝える手法があるものの、それだけでは自ずと限界がある。それを突破すべく、絵師は頭をひねる訳だ。

○葛飾北斎 富嶽三十六景 「凱風快晴」
北斎の富士山シリーズの代表といえばこの一枚。「赤富士」で通る、浮世絵のピカイチ作品。
左やや上方からの朝日に赤く輝く富士の姿だが、タイトルが面白い。「快晴」なら、雲ひとつだに無き空ぞ嬉しきとなるものだが、この絵には膨大な数の鰯雲が浮かんでいる。しかし、眺めている方は晴れ渡っている感覚しか浮かばない。それは当然の話。富士山の全容が見えると、これぞまさしく天晴れとなる訳で、たいていはどこかに雲がかかっているもの。そうなると、雲よ流れてくれとなる訳だ。
この情景は、凱風とされるが、それはゆったりと雲が流れている状態で、これが素敵ではないかというのが北斎の美的感覚。と言うか、もともと誰でもが持っていた感覚を呼び覚ましてくれたのである。
空を見上げて鰯雲がゆったりと流れていく様を一人でのんびり眺めていると憂さも晴れるというもの。しかも、爽やかな季節の朝だ。それに加えて、朝日に映え山肌の色が徐々に変わっていく富士山とくれば、それこそ言うことなし。
あはれあはれと嘆いていた筈なのに、富士山を眺めていただけで、いつのまにか、心のなかが快晴になるのである。

○広重 東海道五十三次 「舞坂(今切真景)」
小船に乗る蛤漁の漁師が見えるものの、ほとんどヒトの存在感を与えないという、宿場シリーズにしては珍しい作品である。
しかも、画面を大きく占める空には、上方のぼかし表現を恣意的に止めている。その代わり、海水面と水平線にぼかしを入れているから、大海原が広がっている感覚を呼び覚ます効果を狙ったのだろう。
浜名湖を海水から隔てていた部分が、「たった今、切れた」ことで、大海と繋がってしまったことを示そうという意図。
タイトルにわざわざ「真景」とつけただけのことはある。ただ、それは写実性というよりは、真の風景とはこれなりと主張したかったのかも。
しかし、大空と大海原に遠景の富士の白嶺というシーンを強調するための小物を詰め込みすぎたきらいも。
  ・30本近くの防波杭
  ・10本ほどの植えた松
  ・10隻ばかりの蛤漁小船
  ・停泊中の大型船3艘の帆
  ・沖に浮かぶ帆掛け舟

(ご注意)
本稿の意図は、マインドセットからの解放につながるような、鑑賞手引きの提供です。こんな話に興味を覚える方のためのもので、浮世絵の素人芸術論を展開している訳ではありません。尚、現段階では、ウエブ上の閲覧対象としては、アダチ版画拡大版をお勧めします。


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