■■■ 北斎と広重からの学び 2013.2.5 ■■■

   社会性という視点での人物表現

富士山や宿場をテーマと銘打ったシリーズ作品なので、人の表情が読み取れそうな絵は少ないが、皆無という訳でもない。登場人物の社会的な姿勢がなんとなく想像できそうなものもあるので、それを取り上げてみよう。

○葛飾北斎 富嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」
駿河のお茶は有名であり、その生産風景が描かれている。と言うか、茶栽培産業のなかで、それぞれが仕事をしている姿を一同に寄せ集めたといった図。従って、働く人達の表情はよくわからないし、その心根も見えてこない。
  ・集団茶摘み姿
  ・天秤棒で茶を運ぶ姿
  ・馬で茶籠を運ぶ姿
    (版元商号の腹掛け付)
どうしてかよくわからないが、実態の仕事振りとは若干違うかなという感じもする。

○葛飾北斎 富嶽三十六景 「諸人登山」
富士講毎に登山する様子を描いた案内書でもある。物見遊山とはいかないぞという、お知らせも兼ねていそう。
この絵の肝は、なんといっても、疲れ切って、ザンバラ髪で寒そうに蹲る集団の様子。こうなる理由として、登山ルートの概念図が示されているようなもの。ここには、遠くから眺める美しい富士の山のイメージは皆無で、剥き出しで荒々しい赤褐色の岩の塊だらけ。そこを一歩一歩登って行くことになる。
まとまってお参りに行く訳だが、それはせいぜいが身を寄せ合って休むとか、頑張れと互いに声を掛け合う以上ではないのである。それこそが北斎の社会観でもあろう。

○広重 東海道五十三次 「藤枝(人馬継立)」
人馬の中継点のマネジメントが垣間見える絵。
それぞれ身分や役割は違うし、性格も様々であるが、それを制度のなかに上手く組み込んでいるのか、この絵がすべてを語りつくしている。いかにも日本的なのは、この場の総責任者とおぼしき人物像。
一人だけ座敷にいる訳だが、高所から命令という風情は微塵も感じさせない。右手を畳の上に置き、左手は膝の上で、話をするために背を丸めている。現場の侍の話をじっくり聴く体質のようだ。頭も低そうだし、顔の表情も穏やかそのもの。人々を気遣いながら、柔軟な対応で仕事が上手く回るように最善策を考えていそう。職務に対する責任感で生きていそうな印象を与える。
驚かされるのは、緊張感の下で全員がてきぱきと仕事をこなしているように映るのだが、その要になっているのが、この好々爺的なお役人だという点。広重の観察は鋭い。
これが人足となると、仕事を完了した方はそれぞれに勝手な動き。汗を拭くものもいれば、一服も。やれやれ終わったと鉢巻を外す者と色々。あー、やれやれといったところ。
一方、荷を受け取って仕事を始める方は、無言で淡々と手順を踏んでいく。
当然ながら、出立する側の侍とその手下は、受け渡し内容点検に余念がない。運んできた方はもうこれで終わりということで気が抜けているが。
これは名所絵とはとうてい呼びがたい代物。だいたい、このシーンが藤枝とどう関係するのかはなはだ疑問。

○広重 東海道五十三次 「関(本陣早立)」
まだ夜明け前。
ここは、大きな紋がついた幕を張り、高々と表示を掲げた、大名宿泊中の本陣である。
出立間近の、ほぼ準備完了時点。当たり前といえば当たり前の情景だが、立場が異なる
ので、態度も様々なところを描き切っているのが面白い。
  ・本陣責任者は裃姿で、最後の指示。
  ・街道に支障がないか外の点検ご報告。
  ・奴は、もう準備が終わり、時間待ちということで、一服中。
侍は、準備万端整ったのか、最終点検中。というか、心の準備というところ。
  ・すでにお駕篭は即出発可能状態。
  ・行列責任者は緊張感ピークで色々とご注意中。
  ・それに応じる担当者達。
そりゃそうなるだろうとは思うがが、各人の心の機微を良くとらえている。ひょっとすると、広重はこれを個性と考えているかも知れぬが、北斎から見れば一寸した体質の違いでしかなかろう。個性の発揮とは、こんな話ではないのである。

(ご注意)
本稿の意図は、マインドセットからの解放につながるような、鑑賞手引きの提供です。こんな話に興味を覚える方のためのもので、浮世絵の素人芸術論を展開している訳ではありません。尚、現段階では、ウエブ上の閲覧対象としては、アダチ版画拡大版をお勧めします。


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