■■■ 北斎と広重からの学び 2013.2.12 ■■■

   保土ヶ谷の実態

保土ヶ谷という地名が付く絵を眺めてみよう。

ということで、絵の前に東海道ではどんな位置にあるかざっと確認しておこう。
  日本橋を早朝出立→品川宿で日の出→
    →多摩川六郷渡→川崎宿→神奈川宿→
神奈川宿では、広重の絵にもなっている「台」地で休憩。港もある宿場町だが、料亭あるいは茶店で休養をとることになろう。保土ヶ谷までは、さらに1里9町(約5Km)と短いがこの辺りが潮時だと思う。
  →八王子道分岐(芝生村追分)→帷子川帷子橋→
現在の帷子橋と場所が違うのだそうで、それが新町橋。ここが、広重の保土ヶ谷と称されている絵の場所。すぐに宿場である。道の分岐だらけだで、宿といってもいくつかの集落に分かれていたのではないかと思われる。そんな場所だから、橋の袂に蕎麦屋があるのはわかる気がする。
  →金沢(文庫)道分岐→保土ヶ谷宿→
当時の旅人は、平均的には1日10里歩いていたそうなので、先を急ぐ旅人が多かった可能性が高そう。と言うのは、ここまではずっと平坦な道で楽だったからだ。1日目だし、もう少し頑張って国境を越えておくかと考えておかしくなかろう。
  →一里塚→権太坂→焼餅坂→武相国境→品濃坂一里塚→
ここらで10里か。もうほとんど戸塚。北斎の東海道程ヶ谷とは、松並木が揃っているので品濃坂の辺りと見られているようだ。(絵には庚申塚があるから、坂道入り口のような場所ではないかという気もするが。)
これでおわかりのように、ここら辺りは、様々な人々が行き交う地だったのである。絵師だったら、そんな情景を描いてみたくなるものではないか。景色ではなく、通行人が醸しだす風情が面白そうというだけの話であるが。

○葛飾北斎 富嶽三十六景 「東海道程ヶ谷」
松並木の街道から、丹沢山系を前段にして富士山を望む、景勝地であるのは間違いない。巷でよく言われるのは、松並木の美しさ。ただ、よくわからないのが、右端の庚申塚の存在。登場人物は限定的で以下の通り。遠景にもひとらしき存在は皆無。
  ・徒歩の、筒型深編笠(天蓋)を被った虚無僧(浪人)
  ・尻鈴をつけた馬に乗る旅人
    -景色を眺めながら手綱をしっかりと持つ馬子
  ・着こんで、丸くなり、じっとして、駕籠に乗っている女
    -汗をぬぐう駕籠かき
    -草鞋の紐を結ぶ駕籠かき
皆、淡々と自分のリズム感で生きているといった印象。馬鈴と規則的な樹木並びと枝ぶりが、通奏低音の如くに共通のバックミュージックとして流れているかのよう。

○広重 東海道五十三次 「保土ヶ谷(新町橋)」
平凡そうな宿場町が描かれている。新しくできた町といった風情。
 江戸から橋を渡って宿場へ
  ・駕篭の正統派旅支度のご一行
    -きちんとした身なりの駕篭かき
    -お付きの侍
    -挟箱持ち
  ・筒型深編笠姿で尺八を抱える、規約通りの風体の虚無僧(浪人)
 江戸へ向かう
  ・よくわからぬ大行列だが、揃いの笠で整列
そして、橋の袂にあるニ八蕎麦の人が道路に出てブラブラしている。
いかにも、上述した宿場の風情。
しかし、注意して画面を見ると、これ以外にも人が描かれている。それは、宿場裏の一面の畑のなか。そこには子供を連れた農夫がいる。ここら辺りの日常性を打ち出すところが広重流。

○広重 東海道五十三次 「戸塚(元町別道)」
上記の続きが「元町別道」として描かれている。
  →品濃坂一里塚動坂→大山道追分→かまくら道分岐→
柏尾川吉田橋を渡らず左折すれば鎌倉に繋がる訳だ。茶店の「こめや」の看板が目立つ場所である。米屋は本業でなくなったのだろう。大山講の指定になっているから、旅籠商売が当たったのだろう。旅人が疲れきったころに、丁度看板が目に入り、信用できそうな業者に映るからつい入ってしまうのだろう。橋を越せばすぐに戸塚宿のようだが、分岐点でもあるし。
絵の登場人物は茶店に着いた旅人二人。
  ・笠も取らずに馬からさっと台に下りる男。
    -気の抜けたような馬子
  ・笠を外す徒歩で来た女
お店は抜かりないお迎え姿勢。そんなことにかかわりなく、老人が橋を渡ってくる。「こめや」辺りの日常の情景である。

(参考) 「東海道を歩く〜宿場案内〜 保土ヶ谷宿」 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所

(ご注意)
本稿の意図は、マインドセットからの解放につながるような、鑑賞手引きの提供です。こんな話に興味を覚える方のためのもので、浮世絵の素人芸術論を展開している訳ではありません。尚、現段階では、ウエブ上の閲覧対象としては、アダチ版画拡大版をお勧めします。


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