■■■ 北斎と広重からの学び 2013.2.21 ■■■

   受け継いだ町絵師の気概

堀文子画伯は江戸期の職人の気概を大切にされているとのことだが、江戸期浮世絵師とは違い、世俗的な風俗画は見かけない。海外の情景は別として、最近の作品は、ミジンコや静物を対象とするものが多いようだ。
そりゃそうである。昭和元禄とでも言うべき好景気に踊りまくり、喧騒と遊興に酔いしれた日本人の風俗を描く気分になる訳がない。

と言えばおわかりのように、浮世絵の基本はあくまでも風俗画である。しかし、それが、自堕落で自分勝手な振る舞いだらけの社会の表層を描いている作品と決め付けるのはまずい。
大衆相手の商業作品だから、ある程度は顧客のムードに合わせるのは致し方ないが、その流れの本質を見抜き、苦闘していた絵師も存在するからだ。北斎や広重はそのような範疇に入るのでは。

それはそれとして、浮世絵について、確認しておこう。
まず押さえておくべきは、それは階級を超えた、民族精神そのものから生まれた絵ということ。
もともと、大和絵にしても、独特なスタイルの風俗画である。それが時代の奔流で隅におしやられた印象が強いが、そういうことではなく、他のスタイルの絵に受け継がれただけ。北斎も広重もヘリコプター視点の鳥瞰図や、現実には同時に見えない部分を同居させたり、見たくないところを雲で覆うといった点については、大和絵の伝統をそのまま踏襲していることを軽視すべきでなかろう。
中国王朝が宋から元の頃は、大陸文化を見習って、日本でも水墨画が大流行したため、こうした潮流が見えにくくなっているにすぎまい。

北斎や広重は、中国文化輸入一辺倒から、欧州先進文化取り入れへのシフトの流れを踏まえ、伝統精神を削ぎすまして、浮世絵を描いただけと考えるべきだろう。西洋画の手法取り入れはその通りだが、それよりは、ネーデルランド風俗画の息吹を感じ取っていた。
ただ、注意すべきは、市民社会化まっしぐらの和蘭と、江戸時代の日本は全く異なる状況ていたことからくる影響の方が大きいかも知れない。日本の絵画は、題材は似ているが全く違うものとの認識を新たにしたのだと思う。
なにせ、日本では、宗教感を一切除外した日本型儒教が津々浦々まで広がっていた。西洋的な市民社会とは根本的に異なるのである。絵師の感覚で言えば、幕藩体制に歯向かうような風俗画はご法度ということ。
そこが、世俗を旨とする浮世絵の限界でもある。権力に召抱えられていた狩野派へのアンチというステレオタイプの見方で眺めると、見逃してしまう。狩野派でも、風俗画でも新しい世界を描くべく苦闘していた絵師がいたからである。

素人にもその辺りがわかるのは「夕立」画。
このシーンと言えば、広重「東海道五十三次」、土山宿での「春之雨」。あまりにも有名。雨足そのものの描写が巧みなだけでなく、登場人物も含め、雨が映えるような構図設計が卓越している。
一方、北斎はこの手のモチーフは避けている。「雨」なら、人の姿皆無の、「山下白雨」。絵を鑑賞する側が雨足を想像することになる作品である。「雨」に打たれる人を眺めていて、インスピレーションが湧かない筈はないと思うが、それを直接的に表現する気にならなかったようだ。
その気持ちは、狩野派絵師の一枚の絵を見たことがあると、なんとなく想像がつく。武士階級でない北斎にとっては、おそらく衝撃を受けたに違いない一品。「雨宿図」という6曲の屏風絵である。
その絵師とは、放蕩三昧が過ぎ、絶頂期に三宅島配流の憂き目を味わった狩野派俊英の英一蝶(1652-1724年)

どんな夕立絵かは想像ができよう。30人ほどが描かれているが、突然の雨を避けて、ほとんどの人が密集して門の屋根下で雨宿り中。そんな余裕もない人は、被りものをして強行軍というところ。
驚かされるのは、描かれている人々の多様性。士農工商など無縁の世界である。子供など、おおはしゃぎ。
北斎は、一蝶の、この「町絵師」気概を受け継いでいそうに思えてくるのである。
一蝶の人となりがわかる話を引用しておこう。
  一蝶配流ノ後、其角ノ許ヘ送リシ発句ニ、
    初松魚 カラシガナクテ 涙カナ(添え書き「イニノナキカ」)
  其角カヘシニ、
    其カラシ キイテ涙ノ 松魚カナ
初鰹1尾に3両支払った御仁がいた、バブル景気に沸く頃の話である。

(参考)
橋本綾子:「元禄期における狩野派の風俗画−新出「祇園祭礼図屏風」をてがかりに−」
加藤好夫:浮世絵文献資料館 英一蝶


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