■■■ 北斎と広重からの学び 2013.2.22 ■■■

   ライバル絵師の存在

海防政策ということで行われた、老中松平定信による相模・伊豆沿岸巡視の際、谷文晁が御用絵師として随行した。そこで生まれたのが、全79図にのぼる風景写生図「公余探勝図巻(上/下)」(1793年)。[e國寶/ 東京国立博物館ウエブで閲覧可能}
公的なものではないと主張している訳で、軍事機密に触れるほどではないというにすぎまい。おそらく建前だ。風光明媚という点を引き立たたせるとともに、浜や湊もあるし、農業基盤もできあがっていそうなことをさりげなく示すことに主眼があったと思われる。暇つぶしが仕事化してしまった余剰武士を、江戸湾侵入阻止要員として大量移住させようとの目論見に加担していたと思われる。それが定信の躓きのもとだったのかも。

当然のことながら、このシリーズでは、下田港、手石、鯉名港、長津呂港、石廊崎といった辺りにやけに力が入っている。特に、石廊崎は他が2枚絵なのに、4枚も費やしている。地勢見聞という査察目的だったから、すべてが写実的だが、対象は「名勝」相当だらけなので、それが、かえって見る方にインパクトを与えている気がする。「名勝」と言っても、大陸的な山岳と比べれば箱庭にすぎぬ景色だが、奇岩の類も多く、結構楽しめるからだ。もちろん、人の姿は滅多に登場しない。例外的に、白濱のような場所で、砂浜に数多くの人影。と言っても、ヒトが存在していることがわかる程度。人間社会の垢を微塵も感じさせない作品に仕上げているといってよいだろう。

ご存知のように、松平定信は文武御政道一直線。浮世絵はイの一番に弾圧対象にあげられた。北斎や広重と、文晁の立ち居地の違いは生活に直接ふりかかってきたと思われる。しかし、緊縮財政路線は長続きしなかった。
この旅行後、定信は失脚し隠居したからである。政治の場面から離れ、文晁を重用し、さまざまな文化的取り組みを進めることになる。そのお蔭で、文晁は、江戸南画の大成者として「徳川時代の三大家」と呼ばれるようになった訳である。

その「公余探勝図巻」だが、すべてが真景である。上多賀など、網代にかけての情景はドンピシャ。熱海港では間欠泉らしき煙がモクモクと伊豆山の方になびいており、観光用にも使えそう。細い線画に近い町並み描写が雰囲気を醸し出しているし。
そうそう、富士山が登場する絵もある。
  「藤澤寺境内望富士山」
  「酒匂川」・・・矢倉嶽と丹澤山の間に富士山
  「箱根山富士見平」・・・足高山を横に
  「鴨居岡」・・・横須賀海岸が前段で大山が横
旅好きだった上、山が大好きときており、なかでも富士山は特別だったらしい。その第一弾の絵がこれらということのようだ。絵からは、そんな感じは受けないが。

単なる写生と言っても、どの絵も構図は見事である。緻密に考えて描いたと思われる。要するに、定信の審美眼にかなうように、洗練を重ねたのだろう。そんなこともあり、山水、花鳥、人物、宗教、となんでもござれ。反体制的に受け取られかねない低俗な領域だけは避けたが、特段に描きたいものがあった訳ではなさそう。しかし、それは必ずしも古典的な御用絵師として生きたことを意味しない。絵は、身分を超越して鑑賞できるものであり、絵師の価値は能力で決まると考えていたようだから。それが、ビジネス的大成功につながったと思われる。
広重は版画での光線や雨の表現に凝ったが、文晁も川津の絵では技巧に走っていることがわかる。絵師は力を試して見たくなるのであろう。

どうして「公余探勝図巻」に入れたくなったのか定かでないが、保土ヶ谷も含まれている。実に、なんということもない風景である。丘と道の間に田圃が広がるのみ。道の両側に家々が並び、外れに2本の松の高木があるだけ。もちろん人影皆無。北斎「東海道程ヶ谷」、広重「保土ヶ谷(新町橋)」、文晁「程谷東望」とそれぞれの思うところの違いが滲み出ていそう。

(推奨閲覧先) 谷文晁 公余探勝図巻 e國寶 National Institutes for Cultural Heritage


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