■■■ 北斎と広重からの学び 2013.2.26 ■■■

   祖師から受け継いだ精神

ディスプレーが大型高精度になったから、浮世絵は、ウエブの写真でも結構楽しめる。それに、原物展示とうたっていても、質はピンキリ。色焼けや、擦り切れ、等々もあるし、版が違うものも。それらを楽しみにするマニアの方なら別だが、素人には見ていてつらいものがある。
痛んだ作品よりは、複製の方が気分に浸れるのが現実。
しかし、これが墨絵になると、そうはいかない。紙や墨の質感が、印刷やディスプレー表示では全く感じられないからである。そういう点では、屏風絵はさらなりといった感じ。知識として絵の細部を知りたいなら、部分拡大写真が掲載されている美術書の価値は高いが、それだけのこと。原物でないと、全体の感触というか、そこからくる感激を味わうことはできない。例えば、出光美術館所蔵品には是非とも見たいものだらけだが、そうはいかない訳である。

前置きが長くなったが、北斎と広重の一世風靡のシリーズものの原点とも呼ぶべき作品を、この美術館が所有していうのである。国宝でもなければ、重要文化財でもない、「江戸名所図屏風」(八曲一双)である。江戸城天守閣が存在し、大川(隅田川)に橋が架かっていない頃の作品であるが、製作年や作者名含め一切不詳。

この絵の一大特徴は、「名所」を描いた風景画にかこつけた、都市における人々の実生活を示した、風俗画である点。ピーター・ブリューゲルが農民の遊興や行事を間近から見た絵を描いたように、様々な場面での町に生きる人々の様子を表現しているのである。ただ、一般民衆宗教的に突き放したような見方はどこにもなく、様々な人々がそれぞれの立場で生き生きとした生活を送っている姿が描かれることになる。それが、まさに都市空間の特質なのであろう。

面白いのは、この屏風の注文主の要求なのか、絵師の好みかはわからぬが、郊外には全く関心を示していないこと。おそらく、描いてある立派な大名屋敷の主辺りがパトロンなのだろう。国元に、江戸という大都会の状況を理解させるために描かせたか。
いわば、「富嶽三十六景」、「東海道五十三次」の元祖。
江戸の生活実感を描き出している訳だが、当然のことながらそこには価値観が現れているから、それなりの思想性が貫かれている。

この屏風絵の日本橋と、「富嶽三十六景 江戸日本橋」、「東海道五十三次 日本橋(朝之景)」と比べただけでも、感覚の違いがよくわかる。
北斎版は橋上雑踏と、両岸の大倉庫壁状態から、状況を想像させる描き方をしている。
広重版は大名行列が、そこのけそこのけと登場。袂には魚市場から出てきた行商人達はいるものの、生活のなかでの形式「美」を見出しているかのよう。
さあ、そこで屏風版だが、この雑然感は凄い。北斎版どころではない。橋の上はなにがなにやら状態。そこにいるのは馬や通行人だけでない。腰を落ち着けて寄付金集めをする勧進僧や、占い師も。
川もひっきりなしに小船が行き来しているし、周辺は、魚市場、野菜市場、材木市場がひしめきあい状態。喧騒の世界である。
そんななかで、近辺の大店の高級ぶりがしっかりと描き出されている。なかなか手が出ない漆器が陳列されているのである。北斎は「三井見世略圖」として、呉服店の販売現場さえ示さなかったのとはえらく対照的。

さらに特徴的なのは遊興施設内の描写が矢鱈に多いこと。色町だらけといった印象もなきにしもあらず。日本橋室町辺りとおぼしきところに建つお寺(誓願寺)の目と鼻の先がそんな地帯(元吉原)だったようである。もともとは、麹町や鎌倉河岸の町外れにあったのが、開発が進み日本橋の外れに移転したが、それも追い出しを食い、浅草寺北の吉原や、千住といった北方が花街になった訳だ。北斎がわざわざ「従千住花街眺望」と題した気分もなんとなくわかってくるではないか。
それに、遊郭ではないものの、類似施設としての「湯女風呂」も事細かに描かれているのには驚かされる。どうも、遊興施設の一種として扱われているようだ。
様々な大道芸人が見られるのも、特筆すべきことだろう。もちろん、歌舞伎や浄瑠璃の常設場もある訳で絢爛たる文化だったことがわかる。しかし、それは公認されたものではない。遊女や役者は必要悪でしかない別枠の身分とされ、遊郭や芝居町はあたかも存在しないかのように扱われていたのが実情。この屏風絵は、そんなことおかまいなしに、あっけらかんと描いたのである。

とはいえ、もちろん、宗教施設も描かれてはいる。だが、広い画面にしてはずいぶんと遠慮した存在。・・・金龍山浅草寺/伝法院、東叡山寛永寺、上野東照宮、湯島天神、神田明神、誓願寺、日枝神社、愛宕神社、増上寺。唯一、派手に描かれているのは三社祭りの光景くらい。大伽藍の筈の芝増上寺は一部のみで実に控え目。それに、境内に露店が出ていたりと、半行楽地化しているようだ。
時代が違うとはいえ、北斎は「富嶽三十六景」を描くにあたって、これら「古き江戸」が入ってくるアングルを避けているとも言えよう。浅草にしても浅草寺は外して、東本願寺の大屋根にしたのである。

だが、同時にこの絵から学んだことも多々ありそう。
そのなかの一つは、様々な大道芸人達の存在。とるにたらぬ芸に見えるが、そのウリはオッとびっくり感。建前でしかない儒教道徳と身分制や鎖国で閉塞感が高まっている都会で求められているのはコレとわかったのだと思う。人々は新しいものを求めていることに気付いたということ。絵師なら、構図でもよいし、色調でもかまわぬが、なにはともあれ画期的と感じさせる作品を創出する必要がある訳だ。
そして、もう一つあげておくべきは、神田の一角に別世界のような職人町が描かれていることに着目した点。「悪」とみなされる遊興の世界を持ち上げ、権力に刃向かっているつもりになるのは、屏風絵の集団刃傷さたに及ぶ無頼の輩と同じ発想でしかないとの思いがよぎった訳である。閉塞感を突き破ることができるのは、魂を込めて仕事に打ち込む職人気質しかなかろうと考えたとも言えよう。西洋型「Craft(工芸) v.s. Art(芸術)」という概念を蹴った訳である。
だが、一番のポイントはそこではない。風俗画たる「江戸名所図屏風」には、描かれている以上のものが含まれていることを悟ったのである。

(本) 内藤正人:「江戸名所図屏風―大江戸劇場の幕が開く」 小学館 [2003.9.20]
(当サイト過去記載) 古屏風に親しむ。【古都散策方法 京都-その24】 [2010年3月2日]



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