■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.4 ■■■

   有名絵師としての肉筆画

北斎「富嶽三十六景」、広重「東海道五十三次」が大ヒットとなった理由としては、下絵を描いた絵師の力もさることながら、版元の事業企画力と資金/販売力、版画を製作する彫り摺りの技量、分業体制の運営力も大きかったと考えられる。
多人数が絡むから、絵師にとっては、自我発揮という点では自由度はそれほど高くなかったと言えるかも。
そういう点では、自ら筆をとって描くだけで完成させることができる肉筆画は、絵師にとっては魅力度が高かったのは間違いなかろう。それは、パトロンが見つかれば実現可能だが、題材や作風を指示されたりすれば、自由度は逆に下がったりしかねない訳で痛し痒しのところがある。
だた、大ヒットで有名人になれば、パトロンもでてくることになるから、それに対してどのような姿勢を見せるかを見ると、絵師としてどう生きていこうと考えているか垣間見ることができる。

・・・ということで、そんなところを一寸眺めておこう。

まず、パトロンになりそうな人々だが、ハイソサエティの人々は常識的にはありえそうにない。浮世絵は教養を欠く下々が楽しむものであり、下品な流行以上のものではなかった筈だからだ。伝統から逸脱していると感じる作品は毛嫌いされたに違いない。
しかし、必ず例外が生じる。陳腐な作品ばかり眺めていると、どこかに、キラキラと光るものがないか探したくなるもので、下品とされているもののなかにも、なにかあるのではないかという気になるのは自然なことだからだ。

それを感じたいなら、御物拝見が手っ取り早い。天皇あるいは、上皇という高貴な身分の方々が、これは所蔵したいと考えた作品だからだ。
と言うことで、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の江戸中/後期の主要絵画リストを見ると、以下の3点。
  伊藤若冲(40歳代)「動植綵絵」-30幅(1757-1766年)
  酒井抱一(62歳)「花鳥十二ヶ月図」-12幅(1823年)
  葛飾北斎(80歳)「西瓜図」-1幅(1839年)
若冲は京のブルジョアジー絵師(所謂、旦那)であり、「動植綵絵」とは、自ら相国寺に奉納した「釈迦三尊像」の荘厳用30幅。寺が1889年に宮中に献上したものである。御眼鏡にかなった作品だったのは間違いなかろう。特筆すべきは、30幅のなかには「群鶏図」のような絵が入っている点。どう考えても、パロディであり、下手をすると怒りを呼びかねない図だが、それが逆に好まれたことを意味している。明治期になり、宮中文化が大きく変わったことを示しているといえよう。
しかし、驚くのは、そんなことはすでに江戸後期に始まっていたこと。なにせ、北斎の作品が所蔵されているからだ。誰が見ても、それは寓意を示すために描かれた作品。西瓜の美しさを称えるような手の伝統的な静物画とは先鋭的に対立する。但し、寓意解釈は容易なことではない。したがって、下々で、こんな絵は絶対にウケつことはないし、市井の教養人の間でさえ、評価される可能性はかなり低い筈。
そんな作品を、天皇あるいは上皇が、御下賜せずに御物として所蔵することにしたのだ。
北斎のセンスをかっていた「クラス」の人がいて、その芸術論を上奏したに違いない。その結果として、北斎への発注だと思われる。
北斎としては、高貴な方への献上という話以上は知る由もないだろうが、状況を察したからこその題材である。一番書いてみたかった絵だったかも知れぬ。

尚、その「クラス」の人とは、おそらく、原安三郎コレクションの「雁と歌仙」(80歳の作品)の発注者。絵の情感からして、北斎と気心が通じていた筈。構図が面白い。火鉢を前にしてどっかり座っている歌仙が、行く雁を眺め、脇息に肘をかけ、掌を横顎にあて、作品を考えているのである。
北斎は物理的に外出もままならぬ状態だったと思うが、「クラス」も自由に外出できず、イマジネーションの世界に生きるしかなかったからである。
この絵は飾りものではない。発注した特製品のバカラやクリストフルへの愛着と似ており、それは「クラス」の生活感そのもの。長屋絵師と化したといわれる老境の北斎には、そんなことはお見通しだった訳である。
それは驚くようなことではない。なにせ、江戸来訪のシーボルトから受注し、その興味のほどを察して、洋紙に肉筆画の江戸風俗画を描いたくらいなのだから。それが職人としての自負というものなのだろう。
それはプロとしての自覚というより、冷徹に社会を見つめる眼があったということではなかろうか。ご法度で咎められない限り、自己規制をかける気はさらさた無かったのである。夜鷹どころか、船饅頭まで、平然と題材にする姿勢こそが北斎流。同じように斬新さで人気を博した大衆作家であっても、広重には絶対にとても越ええられない一線を、越えるという感覚さえないのである。それは気負いというようなものではなく、単に、「前衛」職人として生きることを決めていただけの話。

さて、一方の広重だが、肉筆画の典型をあげるなら、「犬目峠春景図・猿橋冬景図」[MOA美術館所蔵]はどうか。機会があったら、この手の絵を一度眺めておくことをお勧めしたい。言うまでもないが、型にはまった平凡な作品に対面するという意味で。皮肉ではなく、これこそが鑑賞の肝。どうして、このような絵を沢山描く気になったか、絵が語ってくれるかも知れぬからである。
そうでもしないと、広重の考え方はなかなかわかるまい。なにせ押しも押されぬ人気絵師。金銭的に余裕ができれば、版画より自由度が高い肉筆画を描きたくなるもの。しかし、そうなら、今までのモチーフを使って大量生産という方向に進もうとはすまい。なにか、思うところがあったに違いないのである。・・・この作品だが、出羽国天童藩織田家用。藩が事実上の借金棒引き宣言をする際の「贈答」に用いられたそうだ。有難く「拝領」させることができるように設計した絵ということ。要は、わかり易い題材で、有名絵師肉筆画であることがわかれば、それで結構という要求に合わせたのである。

ここら辺り、いかにも広重然。見方によっては、つまらぬ片棒かつぎ。だが、どうあれ絵が社会に広がっていくのは確かであり、それに意義を感じていたということでは。なにせ、時、あたかも、黒船来航で社会が騒然となってくるご時世。そんな社会現象には目もくれず、ひたすら絵のみに集中したのである。広重の絵には、社会風潮からくる緊張感を感じさせるようなものは一欠たりとも存在していない。意志の強さを感じるような人物画は書けなかった絵師と考えてよいだろう。従って、一番人気の絵師にはなれなかった筈で、おそらく面白くなかった筈。それは、ライバルに勝てないということではなく、そのような絵を避けただけのこと。要するに、不安な気分から、ひと時でも離れることができるような作品を提供することこそが絵師の仕事との信念で描き続けたのである。
このままだと大動乱の世必至との予感が頭をよぎっていたのかも。

(「天童広重」の情報源)
小林忠:「浮世絵の構造」学習院大学大学院人文科学研究科美術史学専攻ウェブライブラリー



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