■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.6 ■■■

   精神的交流のスコープの広さ

北斎と広重では、その視野の広さでは、比較にならないほどの開きがありそう。
それは、一つには、自ら頭領として一派を形成したリーダーと、歌川一家内の組織人という立場の違いもあるが、大変動期という時代感覚を研ぎ澄ませようという姿勢と、それから離れて情緒に沈潜する姿勢の違いともいえるのではなかろうか。
どうしても、そう感じてしまうのは、北斎の視野の広さ。
谷文晁といった純粋の絵師は別として、以下のような人々との精神的交流があったと見てよいだろう。簡単にまとめてみた。

○曲亭馬琴(1767-1848年)
この名前「廓で誠」なのだそうで、いかにも戯作者然とした執筆家である。1807-1811年に刊行した北斎挿絵の「椿説弓張月」が大ヒットして、一気に業界トップの地位に上り詰めた感じ。ただ、著作内容から見て、相当に幅広い教養人であったと考えられる。おそらく、その知識をベースに、膨大な資料を読み込んで「作品を創る」ことに全精力を注ぎ込むタイプ。その点では、インスピレーション型の北斎は圧倒されたに違いない。お互い、着想の競い合いもあったろうし、どのようなシーンで訴求するかでは議論がさぞかし盛り上がったことだろう。しかし、ただそれだけとも言えなくもない。結局、両者の間には溝が生まれ、それが埋まることはかったようだ。1815年発刊書が最後の共同作業である。これを契機に、読本挿絵仕事全般を止めたようだ。
それはそうだろう。いくら深い知識があるとはいえ、大衆活劇ばかり書いている御仁の指示に従って描くことに飽きて来ない筈がない。生活の糧としては必要でも、北斎の志はもっと高みにあるのだから。

○高井蘭山(1762-1838年)
「新編水滸畫傳」の初編(1805年)は馬琴だったが、残り2編から9編は蘭山。すべて北斎画。冒険活劇や魑魅魍魎の世界をイマジネーションだけで描くのだから、北斎にとっては、楽しい仕事だったと思われる。
他には、「絵本忠経」、「孝経絵入」と実にお堅い題材。驚かされるのは、「唐詩選画本」の仕事まで始めたこと。北斎とは永いブランクの後の、突如の再開になる。1833-1836年頃のことらしい。蘭山は与力らしいが、この時はすでに市井の雑学的著述家化していたらしい。確かに、著作から見て学識豊か。北斎から見れば、この人なら安全牌といったところ。そういうご時世だったのである。

○柳亭種彦(1783-1842年)
挿絵仕事では、おそらく、馬琴より種彦との方が馬が合ったと思われる。緻密な調査データに基づく珍奇な冒険活劇でなく、学識の裏付けからくる、人間心理を抉る作品に惹かれたということ。北斎の場合、風景画に見えても、それは、人々の心の襞を描いている風俗画でもあったから、お互いの気持ちが通じ合い易かった筈。精神的にも「同志」感情が芽生えていたかも。閉塞感溢れる社会のなかで、日本の行く末を論じながらも、軽妙に文芸に打ち込む姿は魅力的に映ったに違いない。息抜きになる楽しいつきあいだったろう。しかしながら、種彦は、ベストセラーになった「偐紫田舎源氏」(歌川国貞絵)が天保の改革で槍玉にあげられてしまう。そして、すぐに没。
北斎にとって、朋友を失った痛手は大きかったろう。種彦の分まで長生きして絵に精進しようと考えてもおかしくない。

○渡辺崋山(1793-1841年)
調べていないので交流があったかは定かではないが、挿絵絵師でもあったから、知己であったと考えてよいと思う。(例えば、「日光山志」では、崋山、文晁一門、北斎一門、二世重信、等が参画。)版元を通じて、崋山の生活実態も知っていただろうから、その政治姿勢や生活信条に関して、身分は違うが、シンパシーを感じていた可能性は高い。なにせ、家老職の家を継いでいるにもかかわらず、絵筆で生活を立てていたからだ。しかも、身分を越えて「人」を描きたくなるという点で、絵師としての心根を共有していたのは間違いなさそう。おそらく、絵についても、儒学者としての教養が滲み出ており、高く評価していたに違いない。
銅版画モドキの木版画に挑戦したこともある北斎としては、洋学者との交流重視の姿勢に共感を覚えていただろうし。特筆すべきは、北斎がシーボルトに風俗画を納入していた事実。ご法度破りと見なされるリスク承知の筈。その後、シーボルトは国外追放で関係者処罰、その流れは強まり、蛮社の獄に至り、崋山は自決。洋学者に対する弾圧は熾烈を極めた訳である。
一時期、北斎はわざわざ浦賀に住んでいたこともある。多分、開国状況を自分の目で見たかったのだろう。転居が頻繁というのも、気分一新もあろうが、ご近所にお付き合い相手を知られないための用心もあろう。開明派隠れシンパだった可能性は高い。

○佐久間象山(1811-1854年)
佐久間象山は松代藩士で、1851年、木挽町に洋学をベースとした海防兵学の私塾を開いた。それ以前は、江戸藩邸学問所頭取役。北斎とかかわりがある訳ではない。しかし、1844-1848年に、豪商、高井鴻山からの招請で、信濃小布施に逗留したのである。江戸に学ぶために出てきた鴻山と知り合った所以である。時あたかも、天保の改革であり、浮世絵出版ができない状態でもあった。

(ウエブリソーシス)
安藤勇: WEBギャラリー 江戸時代の隠れた名画達 「日光山志」(植田孟縉著)の挿絵
椿説弓張月 曲亭 (滝沢) 馬琴作・葛飾北斎画 全五篇 (椙山女学園大学デジタルライブラリー)
高木元: 高井蘭山著編述書目(覚書)研究プロジェクト報告書 第133集「近世出版文化史における〈雑書〉の研究」  千葉大学大学院 社会文化科学研究科
新編水滸画伝. 初,2-9編 / 曲亭主人 編訳 ; 葛飾北斎 画 早稲田大学図書館


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