■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.12 ■■■

   モネはどう見たのか

印象派というグループは改革を狙った独立画家の集まりではあったが、絵を眺める方からすればその運動の代表は明らかにモネ。と言っても、印象派展を率いていたどころか、途中から離脱するなどしている訳で、画家相互間には、絵画のあり方というか、描き方について相当な溝があったことは間違いない。
そんな状態で、すべてを包含したような「浮世絵の印象派への影響」を考えるのは余りに大雑把すぎる。ミクロで見ておく必要があろう。その上で、全体の概念的把握というのが望ましかろう。そういう意味では、モネが浮世絵をどう見ていたかを眺めることから始めるのがよかろう。
ただ、その前に、モネをかっていたというか、まだ売れていない印象派画家達のパトロン役、かつ自身が画家でもあったカイユボット/Gustave Caillebotte(1848-1894)の絵を見ておくとよいだろう。まあ、モネ流表現の信奉者らしき雰囲気だが、明らかに浮世絵的な表現を取り入れたものがある。実に、革新的なものである。この辺りが浮世絵の直接的影響と見てよさそうである。少なくとも、都会的で斬新で洗練されたセンスの絵画であることは間違いない。
"床削りの人々"1875
 ・職人仕事で床に縦縞模様が生まれる奇妙さ
 ・働く者の体の力強さ
 ・強調された遠近法による描写
 ・小さな窓からの部分的景色で情景を示唆
"ヨーロッパ橋"1876
 ・対象は橋の上の片側のみ
 ・橋を支える構造物表現がメイン
 ・通行人は添え物

さて、それでは、丁度そのころモネ/Oscar Claude Monet(1840-1926)はどう見ていたか。少なくとも、日本に入れ込んでいたことは間違いない。よく見かけるジャポネーゼの典型的な作品。いかにも楽しげ。
"La Japonaise, Madame Monet en costume japonais"1876
もちろん、カイユボットと同じように影響を感じさせる絵もある。
"The Green Wave"1865・・・ノルマンディ海岸からの波にもまれる船。遠くに戦艦。
"Boating"1874・・・ボートの前が水面に出ている構図。
"Agitated Sea at Etretat"1883・・・冬の波立つ海。
"The Four Trees"1891・・・4本の直立する樹木が水面に映っている。
しかし、エプト川堤のポプラ並木は別格としても、他はモネの代表的な作品と呼ぶ訳にはいくまい。浮世絵の構図が、モネの思想に大きな影響があったとは言いがたいということでもあろう。

にもかかわらず、日本では浮世絵の影響が極めて大きいという論調だらけ。それは何故かといえば、ジベルニーの自宅の庭に日本的な橋を架けて藤を植えたからだろう。そこまで入れ込んで、自然を描くのだから、これは間違いなく浮世絵の考え方が入っていると。しかし、こうした見方は情緒でしかなく、論理性に欠ける。そうかも知れぬが、そうでないかも知れぬというだけ。いかようにも解釈可能なのである。と言っても、それがわからない人だらけ。従って、わかっていても、そんな指摘を避ける人も多い。こまったもの。
確かに、「名所江戸百景 亀戸天神境内」[夏・藤]のイメージを取り入れた庭作りに励んだようだし、Le pont japonaisを題材にしているからわからぬこともないが。
"Bridge over a Pond of Water Lilies"1899

だが、矢張り、なんといっても一番の影響はそんなことではなかろう。モネの一大特著とは「連作モノ」である点では。
パリは印象派の活動拠点。それなら都会を描いてもよさそうなものだが、モネの場合は風景画を優先したようだ。もちろん、仲間と同じように肖像画や都会の風景もあるが、「セーヌ川沿い」や河口近辺の海岸へと絞り込んだのである。それは、水辺の風景の光の加減を描きたかったということになっているが、「東海道五十三次」の一時の連作ものを、生涯をかけて描いた広重の姿に感服したともいえよう。川辺に住み着いてじっくりと描くことに専念した訳である。
 [居-1]パリ
 ラ・グルヌイエール1869・・・@ブージバル
 [居-2]アルジャントゥイユの鉄橋1874、-の散歩道1872、-のセーヌ川1872、-のボートレース1872、-のマリーナ1872
 [居-4]ポワシーのセーヌ川における魚つり
 [居-3]ヴェトゥイユに畔の解氷
 [居-5]ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝1897、ジヴェルニーの庭、舟遊び-ノルヴェジエンヌ号1887、エプト川堤のポプラ並木1891
 ル・アーブルの港-夜の効果1873、-港を出る漁船1874、印象-日の出1972
 オンフルール港のセーヌ河口1865
 サンタ・ドレスのテラス1867、-の海岸1867、-のレガッタ1867
 プールヴィルの断崖の上の散歩1882
 トルーヴィルの海岸にて1871
 マルタン岬から見たマントン1884
 ポール=コトンの尖塔-ソヴァージュ海岸1886
   [例外:疎開]英国ロンドン+数ヶ月のオランダ滞在 ザーンダム-ザーン河畔の家1871

これは連作とは違うというのがまともな見方とされているが、そうだろうか。モチーフを決めて、徹底的に沢山描くというのは、浮世絵の構成から習ったものである。物語性もなく、連作を描くには、モチーフの核が必要なのである。それ自体が描きたいものとはいえないが、なにかが不可欠なのである。
「積み藁」などは典型であり、時間、季節、天気での光線の加減の変化を描いている。浮世絵風景画の基本である。
「ルーアン大聖堂」はファサードの描き方。
「テームズ川と国会議事堂」、「テムズ河沿い架橋」、チャリング・クロス橋、ウォータールー橋に至っては、名所図や橋景の発想となんらかわるまい。
そして、なんといっても圧巻は「睡蓮」。

何故に、睡蓮だらけの水辺の風景へ集中始めたかは自明。北斎の富士山だけで、百景という発想となんらかわらない。それは、中国伝来の単純な三景、八景、三十六景とは違い、富士山のモチーフを徹底的に掘るということで。赤富士や黒富士の、単純明快さに、仰天したのかも。
そう思うのは年を経るに従い、抽象的表現が増えており、いかにもインスピレーションの表現欲が高まっているように見えるからである。才気煥発型の北斎と全く同じ。


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