■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.14 ■■■

   非浮世絵型の印象派画家

マネとモネは浮世絵趣味だったが、印象派グループ全体も同じだったという訳ではない。もともと、曖昧な思想であり、信条が一致していた訳でもなく、政治の世界でいえば既得権益用語の保守的な与党に反対の若手が集まったようなもの。絵画の世界は政治とは違うから、権威に対する反抗ということで集まっても、思想が一致している訳ではないから、自分の作品が認められるようになれば、馬糞の川流れ的にグループの態をなさなくなってくるのは必定。
それを初めから予想していたのではないかと思われる画家が、マネ/Edouard Manet(1832-1883)だ。印象派展には一切かかわっていないにもかかわらず、印象派の画家達の後ろ盾となっていたのだから。この人がいなかったら、多分、印象派も生まれなかった位に重要な役割を担っていたのにもかかわらずである。おそらく、画壇の内部からの改革といっても、新潮流発生は期待薄だから、外部の新進気鋭の有能な画家の活躍乞うといったところ。既存の画壇の仕組みで食べながら、それがかなわぬ反抗勢力には、自立して頑張れという、見事な立ち回り。たまたま、こういう人がいたからこそ、印象派がいち早く立ち上がったということでもあろう。
それを考えると、「浮世絵からの影響」があったと言っても、マネの場合は、日本趣味を利用して流れを変えてやろうとの目論見での話という感じもする。
エミール・ゾラの肖像1868の絵がよく紹介されているが、壁に貼ってあるのが、マネ会心の作オランピア1863のコピー、二代目歌川国明「阿品 大鳴門灘右ヱ門」1860、ベラスケス「バッコスの勝利(酔っ払いたち)」1628の銅版画版とくる。背景には琳派の金屏風の一部も。小説家ゾラが開いている本の頁はマネの作品を褒めた論文。マネお好みの絵画とはどういうものか一目瞭然。それが目利きとしても間違いないことをゾラの権威で補強しようとしているのだろう。ただ、人を組織化して目標達成を図る職業政治家とは違って、画家だから、一端、地位を確立してしまえばグループ所属の意義は急速に薄れ、新たな地平に挑戦していくもの。

余計な前置きだが、こうしたマネの姿勢は他の画家にも当てはまる。互いに、独自の地位確立ということで活動しているのだから、マネの嗜好と大きく異なっていてもおかしくない。印象派画家だからといって、マネほどに浮世絵を高く評価しているとは限らないということ。
そんな画家を眺めてみよう。

先ずは、非風景画として有名な巨匠から。

ルノアール/Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)
印象派画家と深い交流が生まれたのは、一緒に写生にでかけたからと思われるが、思想的に官展・官学・既存の権威へアンチテーゼを提起したかった訳ではないだろう。要するに、典型的な都会の風俗画家であり、神話や宗教画に全くもって興味がなかったということでは。ただ、経済的にも、娯楽という点で、急速に発展する都会の嬉しさを描く気は無い訳で、題材にしたいのはそのような社会で現実に生きている「人」そのもの。風景に自分なりの美を感じることより、そんな雰囲気を楽しんでいるヒトを描きたかったということだろう。
絵に、生活の華やかさや楽しさがこめられている訳だから、勃興するブルジョアジーがパトロンとなり易い画家であるのは間違いなかろう。斬新さというより、そのような感覚で描かれた絵がなかった訳だから、しいて、流行の日本趣味的要素を入れて新しさを出す必要は無かろう。というか、多分、邪魔である。風景の添え物的な人物描写である浮世絵の風景画も、まったくもって興味の範囲外だろうし、明らかに、特別な風体をウリにしていそうな、役者、力士、芸者、にもたいして感興を覚えなかった可能性は高そう。
ただ、浮世絵の色彩感覚には感ずるところがあったのではなかろうか。だからこそ、印象派画家達との写生を心底楽しめたのだと思う。
しかしながら、色彩ばかり追求したところで、新しい道を切り拓ける訳ではないことに一番早く気付いたようである。確かに、子供や裸婦の魅力をとことん追求する気になれば、筆のタッチだけでの表現では限界があろう。平板でべた塗り的な浮世絵なら尚更。
そうなれば、学ぶ対象は伝統絵画。改革派での一角を担うとされているが、その実、古典への回帰が図られているということ。脱既存志向だけでまとまっていただけの印象派グループから離脱せざるを得まい。浮世絵の影響があったとは言い難い画家である。

次は、ルノアールと嗜好は似ているが、センスがえらく違う画家。

ドガ/Edgar Degas(1834-1917)
ルノアールやモネが印象派展から離れていったのに、逆に、展覧会を追求した画家である。それが、グループの分解を早めた理由でもあるらしいが。
この画家の性分は、題材を見るだけですぐにわかる。印象派に入れ込む理由もよくわかる。「永遠の美」といった思弁的な、神話・事跡の世界の絵はいい加減に止めて欲しいということだろう。ともかく、現実性ある題材で美を追求して欲しいということ。
ただ、ドガとしては、都会らしい面白いものを取り上げて欲しかった筈。オペラ/バレーや競馬に入れ込んでいるなら、ひたすらその辺りを描きたくなるのは当たり前とはいえまいか、という主張である。田舎が好きなら、都会に住むべきでないという意見を吐きそう。喧騒を離れて、ひと時の楽しみということで、行楽地を描くならまだしも、田園地帯を描くのなど過去の流れそのものと感じていたと思われる。題材としては、先ずは都会の歓楽地であるべきと考えていたに違いない。
そういう意味では、都会風俗画としての浮世絵の影響は大きかったかも。ただ、田舎の風景や職人が働く姿にはたいした価値を認めていなかったかも。ニューオリンズ綿花市場で働くビジネスマンやアイロンがけをする人達の姿を都会的で面白いと感じたのだと思うが、おそらく、たまたま。そこから一歩進むことはない。
  "Portraits dans un bureau, Nouvelle-Orleans (Le bureau de cotons)"1873
  "Les repasseuses"1886
いかんせん、江戸の生活文化はパリから離れ過ぎ。浮世絵に、面白いモノを題材にする姿勢を見てとってはいたが、そこから学ぶということはなかったのでは。

ルノアールもドガも、色彩を重視する印象派の風景画家という感じはしない。だから浮世絵の影響が感じられないということになりかねないので、純正タイプの画家も見ておこう。

シスレー/Alfred Sisley(1839-1899)
この画家の絵は、見た瞬間に、これぞ印象派風景画とすぐにわかる。従って、愛好者は少なくなさそう。シスレー、ピサロ、モネの、似たようなトーンの絵が並んでいるなら、その手の嗜好を表に出しているということ。もちろん、それは印象派グループの本質とは全く違うのであるが、そうした展示の方がなごむ。
こう書けばおわかりだと思うが、他の印象派の画家と比べると、マンネリ化しているのは間違いない。言い方を変えれば、初志貫徹の画家である。どちらに映るかは、見る人の立ち位置で決まる。真正印象派の巨匠といえば、モネやルノアールではななく、本来はこの画家なのでは。但し、絵が売れた訳ではなく、その逆だったそうだ。晩年には貧困に陥っていたらしい。
言うまでもないが、浮世絵からの直接的影響は、ウの字さえ感じられない。

純正タイプの画家として言及したので、・・・。

ピサロ/Jacob Camille Pissarro(1830-1903)
もともとミレーのような、農民の働く姿を描きたい画家だったのだろう。そのため、バルビゾン派の流れと解釈できるらしい。しかし、印象派として扱うなら、それは如何なものか。宗教的な雰囲気を絵から除去するというのが、印象派の核心だからだ。本質的には対立的な流派であろう。と言っても、旧教の社会であるから、そう簡単に宗教的感覚から離れることができるとは思えないが。
そんな考え方の画家だから、印象派展には欠かさず出展してきたらしい。そして、亡くなるまで印象派的絵画を描き続けたという。もちろん、フォンテーンブローの森やバルビゾンの田園的風景を思わせるような題材だらけかも知れぬが。
おそらく、浮世絵に、キリスト教とは異質とはいえ、信仰心を示唆していそうなものが入れ込んであることに気付いていた筈。そうだとすれば、浮世絵を積極的に学ぼうとのパトスはなかったと見てよかろう。

このように2群に分けて眺めると、浮世絵の影響が感じられないもう一人の画家についても書き足したくなる。ただ、脱印象派表現の画家でもあるので、一括してしまうのは多少無理があるが。

セザンヌ/Paul Cezanne(1839-1906)
浮世絵の風景画を見ればわかるが、前景と背景が峻別されるのが特徴。その中段に、いくつかの景色が入ることもある訳だ。セザンヌの絵は、これとは水と油の関係に近いのでは。前後景の区別をなくそうとしていそうだからだ。そういう観点では、反浮世絵と言える。
ただ、その考え方と、印象派からの離脱は関係なさそう。明るい色彩感覚や、筆のタッチを残すという点では、モネやルノアールと同じ方向性で模索したようだが、それに満足できなかったことが大きそう。改革派ということで集まっただけだから、このままでは自分が脱皮できないと感じた瞬間、印象派離脱しか道はなかろう。下手に一緒と見なされたりすれば、全くもって面白くないからである。
結局のところ、静物に注力することになったようだが、それは、モチーフの構成要素の「形」へのこだわりのせいでは。この「形」だが、思いつきですぐに浮かぶようなものではなく、熟考し磨きあげる要ありの世界。北斎の幾何学的な分解で形を作れるという教授法の世界とは相容れない。分析的に絵を生み出すような作業は嫌っていたに違いないからだ。

・・・と、このように非浮世絵あるいは、反浮世絵感覚を持っていそうな画家が存在したのが印象派の実態である。
浮世絵が印象派に大きな影響を与えたというのは、どういうことか論理的に説明できないとしたら、それは個人的情緒にすぎまい。それを皆で共有して、「事実」とみなすようなことはお止めになった方がよかろう。それを商売にするプロは別で、もっともっと頑張って欲しいもの。まっとうな社会なら、プロの批判者が生まれるからである。
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