■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.15 ■■■

   ポスト印象派の受け取り方

日本の美術館が揃えたいポスト印象派画家とは、静物のセザンヌ、タヒチのゴーガン、炎の画家ゴッホだろうか。これに、多少異質なロートレックはあればあった方が大いに嬉しいといったところでは。小生の時代の義務教育課程で叩き込まれたイメージそのもの。もっとも、その言い方は教師には失礼か。そういう姿勢で教え込まれた覚えは皆無というか逆だった。叩き込んだのは自ら。と言うのは、高校受験でこういったことをちょっと覚えるだけで100点満点になる科目だったというだけのこと。そんなこともあって、好きだった水彩画にも興味が失せたりした、今や昔の悲しい話。もっとも、今は、それより状況は良くなったかといえば、多分逆だろう。
そんな話はさておき、暗記不要となれば、すぐにわかるのは、ポスト印象派の定義は極めて難しいという点。マリナ・フェレッティによれば、「何でも押し込めむことができるがらくた入れのように、便利な名称」と揶揄しているが、様式や時代的に幅広い画家の作品を一緒くたにした展覧会を開催するのに都合のよい言葉でしかないのである。と言うより、人気がある印象派の流れにつなげないと、商売としては大損だから、こうした定義がなくなることはなかろう

もともと印象派からして曖昧な定義だし、モネとルノアールの2巨頭が離脱して、ドガが主流になった集まりになれば、印象派とは何ぞやとなる訳で、ポストとなればますますわからなくなる訳だ。

ともあれ、初期の印象派様式はすぐに行き詰ってしまったと見るのが打倒なところ。それを認めるとバラバラで美術史として描きにくくなるから、曖昧でも一時代を作っておかねばなるまいといったところ。
まあ、初期印象派の流れの発展系画家ではなく、そこから一皮剥けた画家を「ポスト」として括るというのがわかりやすかろう。そんな画家達にはたして浮世絵がどう受け取られたか考えてみたい。

まず最初は、印象派風景画の観念的進化形態と模索した流れから。

スーラ/Georges Pierre Seurat(1859-1891年)
とんでもなく長時間がかかる点描の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」 (1884-1886年) で知られる画家である。一目見るだけで、その静かな佇まいに引き込まれる。素晴らしい絵である。絵の具を混ぜると、明度が落ちるため、それを避けた印象派誕生の技法を、論理的に進化した結果である。
それなら、淡色のベタ塗りで工夫する道もあったのではないかと感じたりする。それが浮世絵流。それを恣意的に避けたということだと思われる。浮世絵の手法は十分意識しており、自分の手法はその究極の発展系と自負していたに違いないのである。
それが顕著にわかる作品がある。「グランキャンのオック岬」(1885年)。
どう見ても、東海道五十三次「箱根(湖水図)」の岩峰そっくり。試みは面白いが、元絵の迫力は出せていない。小生は凡作としか思えないが人気上々のようだ。
  "Le Bec du Hoc, Grandcamp"
   http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/georges-seurat-le-bec-du-hoc-grandcamp

尚、「点描法」はスーラの後に消えた訳ではない。

リキテンシュタイン/Roy Lichtenstein(1923-1977)
ポップアートとして、点描技法は昇華したと言ってもよいのでは。よく知られる新聞漫画を拡大したドット絵にすぐない訳だが、通俗的なもののなかに存在する「美」を主張するという点では、まさに印象派の末裔である。しかしながら、印象派好きの人々には好意的に受け取ってもらえてはいまい。

一方、そうした技巧という面で、印象派好きに好かれる絵は売国大衆文化ではなく、パリの大衆文化の方。

ロートレック/Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)
いうまでもなく、ムーランルージュのポスター。これは西洋版歌舞伎看板と言えよう。

こうして眺めると、浮世絵の衝撃とは、二つに絞られているかのように見える。ひとつは、都会の余暇を描いた点。もう一つは、単純に見える絵だが実は高度な技巧に裏付けされている点。
表層的には、それは印象派の特徴でもある訳だが、この程度の影響ならたいした意義は無い。
もっと大きなインパクトを与えたと思われる例があるからだ。それは、モネの比ではない。と言うのは、モネは浮世絵に宗教性というか信仰心を感じなかったと思われるから。おそらく、そこが、浮世絵を気に入った理由でもあろう。
しかし、脱印象派を目指す画家達は、どうも、そこに自然信仰を見出したようである。都市文化が爛熟してしまうと、初期印象派の画題では、さっぱり都会の嬉しさが感じられなくなるからだ。そこが浮世絵と違う点。いかにも、成熟しきった都会の風景を描いているが、田園あり、山岳あり、の絵の世界。それぞれが別途なジャンルという訳ではなく、すべてを包含する愉しみが詰め込まれていることは見た瞬間わかる筈。それを理解すると、浮世園に入れ込まざるを得なくなるのである。
この感覚こそが、ポスト印象派である。

ゴーガン/Eugene Henri Paul Gauguin(1848-1903)
淡色べタ塗りが多いことで、なんとなく浮世絵じみたところがある絵である。多分、浮世絵に原初的なものを感じたのである。日本への憧れがあったのかわわからぬが、タヒチへの憧れは確かなところ。多分、実際に生活すれば、原初的精神生活とは無縁であることを思い知らされたと思うが、絵にその希望を託したのだと思われる。
浮世絵の技巧を愛でたプロの目ではなく、浮世絵を好んだ日本の大衆の目で眺めたのだろ。アマチュアたることこそが、絵の原点であることに気付いた最初の画家かも。絵による自己表現の最高峰は、自然の捉え方であり、当然ながら写生とは違うし、特別な技法が必要な訳ではないのである。絵を楽しむというのは、その捉え方を共有するということになり、一種の信仰と見たのだろう。こうなれば、脱信仰の印象派とは一線を画す。新しい時代に踏み入れたのは間違いない。

ゴーガンが浮世絵信奉者とは言い難いが、あきらかに信奉者の、燦然と輝く大画家が存在する。その話てしめよう。

ゴッホ(1853-1890年)
浮世絵の影響を受けた西洋の画家といえば、ゴッホ(1853-1890年)をあげるのが日本での通り相場。
広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」、「大はしあたけの夕立」の模写作品(1887)[Pruniers en fleurs (d'apres Hiroshige)]があるからだ。しかも、印象派のセミパトロン役をこなしたことで有名な画材屋さんを描いた「タンギー爺さんの肖像/Pere Tanguy」(1887)の画中背景に広重の東海道五十三次「石薬師(石薬師寺)」、富士三十六景「さがみ川」等が登場している。いずれも、ゴッホ美術館所蔵品だが、メインではない。流行のJaponismeに染まった絵という評価かも。この感覚だと、浮世絵の影響が出ている代表作とは、The Courtesan (after Eisen)(1887年)となろう。Paris Illustre Le Japonの表紙絵に使われたからである。
どのようにゴッホの作品に影響を与えることになったか、論理的に納得がゆく説明ができなければ、これは当然の見方。浮世絵好みとは一時の流行で生まれた熱情とされるだけ。まあ、せいぜいが、浮世絵のモチーフの斬新さに惹かれたという解釈になる。小生はそうは思わないが。
それに気付かされるのは、老人が達観した様子で椅子に座る図。頭の上には「富嶽」の絵。不二として崇め、自然と一体となりながら生活する日本社会に強い憧れを抱いていたということだろう。ただ、自身の自然との一体感と言う意味では、代表作なんといっても「星月夜」(1889)。インスピレーションを、色彩感覚を研ぎ澄ませて、直にc表現すればここまで行くことになる。浮世絵の「毒」に魅せられた究極の姿とは言えまいか。


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