■■■ 北斎と広重からの学び 2013.3.21 ■■■

   日本人の風景表現について

海外の印象派画家を中心に、浮世絵がどのように影響を与えたのかざっと眺めてみたので、日本における景色表現をどう見ているのか、一寸見ておこう。

そうなれば、先ずは、太宰治の「富嶽百景」しかあるまい。
冒頭から、北斎・広重のモチーフに対して一発。・・・
実測断面図にようると、富士山の頂角は南北で184度、東西でも124度。しかるに、広重、文晁らが描く山は鋭角。北斎に至っては、30度。「エッフェル鉄塔のやうな富士」。
私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。
ハハハ。
と言うことで、以下、このような評価が続く。
○「東京の、アパートの窓から見る富士」は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。
○「甲州・御坂峠から見る富士」は、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。
○「三ツ峠頂上茶屋から見る富士」は濃い霧で見えなかったが、ドレラ姿で番茶をすすりながら、著店の老婆が掲げてくれた大きな写真を眺め、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思はなかつた。
・・・といったところだが、富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたというのが肝。
印象派シンパではあるが、海外との自然鑑賞との違いを感じていたのは間違いなさそう。

その辺りを論理的に喝破したのが、長谷川如是閑。その著作「日本的性格」から引用しておこう。
今日の文学においても、自然描写において卓越しているものは、はなはだ多くない。・・・//・・・
富士山に対する山部赤人の有名な歌でも、自然描写でも何でもなく、ただ概念的に、古来語られている富士を語って、「語り継ぎ、云ひ継ぎ行かむ」といっているに過ぎない。「田子の浦やうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」という反歌には、いかにも日本人の自然に対する態度の素樸さが見えていて、写実的のその態度も面白いが、しかしこれも実際見た現実ではなく、いわゆる「歌人はいながらにして名所を知る」というような格言を生ずることが、日本人の自然に対する感覚の不十分をいい現しているのである。
浮世絵などは比較的近代の産物でありまして、大衆的の物でもありますから、それを捉えた時には比較的能く日本人の気持を捉えることが出来るかも知れないのでありますが、それでもどうも外国人的の見方に依るようなことがあるようであります。

まあ、確かに、日本人は景色を鑑賞していないのかも。自然に自己を投影したり、景色を云々することで、他人と気分を共有することが嬉しいだけの人が多いということかも。堀辰雄「風立ちぬ」の文章を読むとそんな気もしてくる。
――「そうだ、おれは随分長いことおれの仕事を打棄らかしていたなあ。なんとかして今のうちに仕事もし出さなけれあいけない」……そんなことまで考え出しながら、何かしら私は気持が一ぱいになって来た。それから私達はしばらく無言のまま、丘の上に佇みながら、いつのまにか西の方から中空にずんずん拡がり出した無数の鱗のような雲をじっと見上げていた。
あたりの山々は、曙の光を浴びながら、薔薇色に赫いている。・・・//・・・さも愉しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活をそっくりそのまま書き取っている……今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、
そんな何処にだってありそうもない版画じみた冬景色を目のあたりに浮べながら、その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、冷たい空気とだけが残っていた。……

ただ、静物的なモチーフという点では、日本人に感覚の鋭さが欠けているとは思えない。典型は、梶井基次郎「檸檬」。
周圍が眞暗なため、店頭に點けられた幾つもの電燈が驟雨のやうに浴せかける絢爛は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆にも美しい眺めが照し出されてゐるのだ。・・・一體私はあの檸檬が好きだ。レモンヱロウの繪具をチユーブから搾り出して固めたやうなあの單純な色も、それからあの丈の詰つた紡錘形の恰好も。
当然ながら、この手の感覚は純粋の景色表現でも駆使されることになる。梶井基次郎「筧の話」で見てみよう。
○街道の傍から渓に懸った吊橋を渡って入ってゆく山径か、渓に沿った街道を散歩するのを常としていた。前者は陰気だが心が静かになるコースで、後者は展望が開けるが気が散るコース、選択は気分次第だが、この日は山径にした。
  吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。
  杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。
    ゴチック建築のなかを辿ってゆくときのような、
  犇ひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。
  私の眼はひとりでに下へ落ちた。
  径の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の類がはえていた。
  この径ではそういった矮小な自然がなんとなく親しく――
  彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺のなかでのように、眺められた。
まあ、そんなところ。
  日がまったく射して来ないのではなかった。
  梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、
  蝋燭で照らしたような弱い日なたを作っていた。
  歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現われては消えた。
  なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが
  草の葉などに染まっていた。
そんな雰囲気のなかで、小鳥の様な気分に陥り、筧の声を耳にした訳である。そして、「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」ことに気付くことになる。

日本文化を愛する作家の景色表現もあげておかねばなるまい。そうなると、川端康成を選ぶしかないか。「雪国」での表現。
鏡の底には夕景色が流れてゐて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのやうに動くのだった。登場人物と背景はなんのかかはりもないのだった。しかも、人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合ひながらこの世ならぬ象徴の世界を描いてゐた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいへぬ美しさに胸が顫へたほどだった。
右手は雪をかぶつた畑で、左には柿の木が隣家の壁沿ひに立ち並んでゐた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のやうに家も朽ち古びてゐた。雪の斑らな屋根は板が腐って軒に波を描いてゐた。
その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。・・・//・・・
「謡の会の団体旅行かね。」
「ええ。」
「雪だろう?」
「ええ。」と、駒子は立ち上つて、さつと障子をあけて見せた。
「もう紅葉もおしまひね。」
窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮かび流れてくる。なんだか静かな嘘のやうだった。島村は寝たりぬ虚しさで眺めていた。
紅葉の銹色が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生き返った。
薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくつきり目立つて、鋭く顛を指しながら地の雪に立つた。
島村は縮の産地へ行ってみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりだった。・・・//・・・
しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。
家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでゐた。・・・//・・・
もの珍しさに ちょっと そのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちてゐたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。
雪の底で手仕事に根をつめた織子たちの暮しは、その製作品の縮のやうに爽かで明るいものではなかった。そう思はれるに十分な町の印象だった。

そうそう、光のモネなら、影のレンブラントとなるが、日本美は後者に近かろう。谷崎潤一郎「陰翳礼讃」の世界ということ。
○和紙の印象。
 ・肌理の温かみ。
   「柔らかい初雪の面のように、
    ふっくらと光線を中へ吸い取る」"和み"
 ・しっとりとした手触り。
   「木の葉に触れてゐるよう」な"物静かさ"
○燭台に乗る蝋燭の焔が闇のなかで揺らめく、京都「わらんじや」の四畳半茶席での印象。
 ・その薄灯かりの下で見るお膳や椀といった漆器の重々しさ。
   「沼のような
     深みと厚みをもった」"艶"
 ・蒔絵の金色が底光りする贅沢さ。
   「豪華絢爛の大半を
     闇に隠し」た"余情"
 ・ちらちらと、か細く伝える、そこここの灯影の怪しさ。
   「綾を織り出す」蒔絵のような
     夜の水のような世界の"風情"
○羊羹の印象。
 ・室内の暗黒が
  一箇の甘い塊になって舌の先で融け、異様な味の深み。
   「暗がりへ沈めると、
     ひときは瞑想的」になる"味の複雑さ"。
 ・光を吸い取っているかのごときほの明るさに見る美しさ。
   「玉のように
     半透明に曇った肌」の"心地よさ"
○外光が入る書院での印象。
 ・庇、廊下を経てようやく書院に届く光の弱さ。
   「障子の紙の色を
     白々と際立たせる」だけの"静寂感"
言うまでもないが、浮世絵は町人文化の粋であり、綴じ本のようにされて、室内で眺める作品集だったのである。明るい室内の壁の飾りモノであった筈がない。


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