■■■ 北斎と広重からの学び 2013.5.27 ■■■

   集中力の凄み

ふと眺めた本に掲載された絵で気になった一枚がある。南方熊楠。

机の上に置いた茸を左手でつかみ、眼光鋭く見つめながら、右手人差し指で筆を支えながら描写に集中する姿が描かれているイラスト。
何故かゾッとさせられるが、矢張りそういうことかも知れぬという気にさせられる。知識からではなく、茸の図譜のコピーを何枚も見た経験から。

コメント通り。
一枚の神の中に縦横に入り乱れた細かい文字の連鎖と共に絵や地図や墨の汚れまでが宇宙と作っている。・・・//・・・これを絵画と呼びたいな。

「脳の中の次元の高さが見えてくる」かどうかは見る人によるだろうが、「上手」な一流画家とは一寸違う、その卓越した描写力と、驚くべき集中力に気付かない人はいまい。
そんな絵を5000枚以上描いたのである。

プロの絵師ではないが、この絵を描くことこそがプロの一番の仕事だったからこんなことは当たり前といえば当たり前ではある。しかし、凡人のレベルをはるかに突き抜けている。にもかかわらず、凡人を感動させる絵なのだから恐れ入る。芸術家と呼ばれることはないが、それはそう呼びたくない人が多い社会だからである。

考えて見れば、北斎の評価もそんなところ。たまたま勃興する印象派の一部が評価したのと、日本の工芸品ブームによって、欧州で注目された結果、芸術家の一角を占めるようになったというのが実態だろう。
それが、ここのところ、ようやく、一般人が、自分の頭で評価し始めたというのが昨今の状況とはいえまいか。

それは、現代絵画のどん詰まりと軌を一にすると言えなくもない。抽象画好きな素人なら、そう考えるのが自然。

「ポップ・アート」が生まれてしまえば、後は転がり落ちる以外にないからだ。なにせ、大衆に普及しているモノを題材にするという意味でのポップでしかない潮流だからである。大笑いなのは、作品自体にはなんら大衆性はない点。ほとんど高踏的と言ってよいだろう。だからこそ魅力的なのであるが、浮世絵のように平均的町民が眺めるような代物にはほど遠い作品。大いなる矛盾があるのだが、それは主流に対するアンチテーゼとして登場したから。
それはそれで意義はあるのだが、主流に対する反主流、それに対する反々主流、と次々と生まれていくことになる。それがトコトン進み、主流もよく見えなくなってくれば、この手の作品に何の意味があるのとなるのは当たり前だ。しかも、文字情報による解説なしでは自立でき得ない作品だらけ。部外者から見れば、蛸壺に入ってしまった裸の王様の作品といったところ。それを囃す一部の人々だけが愛好する美術品の世界が形成される。この結果、著名な現代絵画はすでに鑑賞の対象ではなくなってしまった。それは、時代精神の墓碑銘拝見の観光以外のなにものでもない。それはそれで面白い訳だが。

どうしてこうなってしまったかといえば、おそらく、現代のセレブには、芸術を切り拓くような感性が無いということだろう。大衆がついてきそうなカネの使い方を考えているだけで、独自の美意識を磨くことができなくなってしまったのである。
そんな閉塞状況を突破できるとしたら、それは、本物のプロの登場しかなかろう。
自分の意志を超越した高みから眺めた世界の本質を描こうという強い意志と、対象を徹底的に見つめる「集中力」を見せ付ける芸術家が待望されているということでもあろう。従って、北斎人気が続いているとしたら、そうした画家がさっぱりみつからないということかも。

(本)
「山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト」 文芸春秋 2013年2月20日
ワタリウム美術館-編集,萩原博光:「南方熊楠 菌類図譜」 新潮社 2007年

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