■■■ 北斎と広重からの学び 2013.8.15 ■■■

      「安藤」広重について

「歌川」広重を「安藤」広重と間違って書く人が多く困ったものという手の文章をよく見かける。小生はどうでもよいと考えている口なので、気にも留めていなかったが、書いておくことにした。

広重は幕府直属の定火消同心の武家出身者。戒名は顕功院徳翁立斎居士で、墓所は、浅草新寺町辺りにあった曹洞宗南昌山東岳寺。(移転先は竹ノ塚駅近辺)

比較に、北斎もあげておこう。
貧農出身と言われているが、はっきりしている訳ではない。戒名は南(惣)院奇誉北斎信士。墓所は、浅草新寺町の浄土宗瑞亀山弘願院誓教寺。いかにも町人絵師の扱いといった感じ。
なにせ、信仰していたのは、日蓮宗柳嶋妙見山法性寺の妙見堂に祀られている開運北辰妙見大菩薩。だからこその「北斎」だし、存知のように法華経を唱え、自ら「卍」と称しているほど。本来なら日蓮宗のお寺に葬られる筈では。
言うまでもないが、本姓の中島など皆無視。

このように書けば、「安藤」広重と呼ばれる由縁は自明では。
広重は、列記とした安藤姓を持つお侍なのだ。明治期で言えば、「士族」であり、浮世絵師の町人とは身分が違うということ。

だが、面白いと思うのは、周囲はそのように扱いたかった訳だが、当のご本人はあくまでも歌川一家の浮世絵の「絵師」でしかなかった。従って、「歌川」広重と書くべきというのは正当な主張だと思う。
ここは、北斎とは全く異なる。北斎は、「絵師」とは思えないからだ。どう見ても「画家」。
例えば、北斎漫画など、誰が見ても、それは「コミック」あるいは「戯画」ではなく、スケッチ画集。要するに、北斎称するところの「漫画」とは、漫然と気の向くまま色々な物と描いてみた絵画ということ。
確かに、とんでもない作品もあるが、それは当時流行っていた狂歌ならぬ、狂画ということだろう。

安藤広重は、これができなかった。武家出身の精神的しがらみではないか。「冗談」あるいは「滑稽」表現には全く手を染めていない。
せいぜいが、人が作る影絵の面白さ程度で、町人が大笑いするようなものには程遠い感じ。真面目一本槍なのである。
もちろん、そんなことはない、と言うお方もおられよう。五十三次の「赤坂」や「御油」での飯盛り女の客引きの面白シーンを思い出せば、それも一理あるとなるかも。しかし、これらは、東海道中膝栗毛から頂戴したネタでは。いわば、「滑稽本名所」紹介ではなかろうか。広重は「滑稽」は苦手。その辺りに踏み込むと、ステレオタイプな表現になってしまうようだ。江戸の名所絵でよく引用されている絵など典型。
 ・窓に猫・・・部屋での商売の象徴。
 ・万年橋にぶる下がる亀・・・放生でバタつく万年亀。
品位を保つためには、そうすべしと考えていたのかも知れぬが、生真面目すぎるというか、面白味が無いのである。
多分、鳥獣戯画の類似ものなら描くことはできただろう。しかし、その絵に突き刺さるような棘を埋め込むことができる人ではなさそう。
だからこそ、広重好きが多いとも言えよう。「棘」は取り除きたい人の方が多い社会なのだから。

そういう観点では、北斎は対照的。これでもかという位、大仰なパフォーマンスで耳目を集めたりすることさえあるからだ。それに、なんのてらいもないのが素敵。なかなかできることではない。武士のように、枠を嵌めて世の中を見るなぞ真っ平御免ということ。
小生は、即興描画で、インスピレーションとはどういうことか、見せつけたかったのだと思う。当然ながら、「滑稽」にしても、そこには必ず「棘」がある。
それこそが、精神的自由そのものと考えて描いてたに違いない。
繰り返すが、北斎は「絵師」ではなく、「画家」である。それも、アバンギャルドの。
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